『信用』を失うことに怯える現代社会
世の中にはやたらと、「信用を失わないための方法」の情報は多い。
「人を裏切ると信用を失う」
「嘘をつくと信用を失う」
信用恐怖症なのが現代の特徴ではないかと思うくらいに、信用を気にする人が多い。
確かに信用を失うことは、ときに人生を左右することにもなりかねない。
信用を失ったばかりに、路頭に迷う人もいる。
信用を失うことを怖れる気持ちがあることも分かる。
だけど、本当にそうだろうか?
人は、信用があるからつながっているのか?
信用できると考えてから、人と繋がることを選んでいるのか?
そもそも信用とは何か?
この記事では、信用を失うことを怖れる気持ちの考察を述べていく。
人は信用を失ったら生きていけないか?
そんなことはないと思う。
「この人の信用を失ったらもう生きていけない」という人もいる。なら「この人」が死んだら、あなたはもう生きていけないということになってしまう。
死んだらもう信用されないのだから。
極端な話ではあるが、あなたはどんなに信用する人があなたの周りからいなくなっても、生きていくことはできる。
信用がなくなったからと言って、死ななくてはならないということもない。
ではどうして、「この人の信用を失ったらもう生きていけない」という人がいるのか?それは果たして「信用」と言えるのか?
信用ではない。それは依存だ。
信用と言っているだけで、中身は依存しているのだ。
相手の存在に依存しているから、信用を無くし、つながりが切れることを怖れる。
つながりが切れたら死ぬのか?
信用を失うとは、その人との関係が切れることだ。それは個人的な関係かもしれないし、社会的なつながりかもしれない。
だけど、ちょっと考えてみてほしい。
信用を失うのがつながりが切れることだとすれば、あなたは信用にかかわらず色々な人とのつながりが切れてきたはずだ。
幼稚園の頃の同じ組の子と、今でもつながっている人はどれだけいるのか?
小学生の頃の同級生と、今でも連絡を取り合っている人はどれだけいるのか?
中学生の頃のクラスメイトと、今でも食事に行く人はどれだけいるのか?
ザックリ上げたが、思い返せばこれまでの人生で多くの人とのつながりが切れてきたはずだ。
今まで出会った人すべてとつながったままという人は、まずいない。
つながりが切れるのは、当たり前のことだ。
疎遠になった友達など数知れない。
それが何か問題だろうか?
何も問題は無いはずだ。
つながりが無くなっても、あなたには何の支障もない。
それは、これまでの人生が証明してくれている。
人とのつながりが切れることが、あなたの人生に終止符を告げることはまずない。
信用を失うことが、あなたに死をもたらすわけでは、決してない。
信用は依存度に比例する
「この人の信用を失ったらもう生きていけない」という人は、「この人」に依存していると前に書いた。
つまり、信用していればいるほど、依存度が高いということだ。
依存度が高いのだから、つながりが切れれば絶望するだろう。
生きていけないと言うこともあるかもしれない。
逆に考えると、信用されすぎるのも考え物だ。
発言、行動、その他一切を信用されるというのは、それだけ依存されているとも言える。
「狂信」という言葉もあるが、偏りすぎた信用は、極端な依存だ。
それは身を滅ぼすことになりかねない。
万人に信用されない人はいない
この世の誰にも信用されない人は存在するのか?
現実的に考えて、存在できないと思う。
例え犯罪者であっても、信用しない人間が存在しないということは無い。
同じ犯罪者なら信用するかもしれないし、その犯罪内容次第では一般人でも共感し、信用する人もいるかもしれない。
「誰にも信用されていない」という人がいる。
果たして本当にそうか?
それは、「私が依存したい相手から信用されていない」というだけではないか?
本当はあなたの後ろにあなたを信用する人がいるのに、あなたの目は正面しか向いておらず、正面にいる人しか見えていない。
少し振り返るだけで、あなたを信用する人はそこにいる。
それに気づければ、あなたは誰にも信用されていないということは無い。
信用を失うことを怖れるとは人の顔色をうかがうこと
自分の発言・言動で嫌われないか、不機嫌にさせないか、つながりを切られやしないかと怯えるようになる。
そのため、信用を失うことを怖れる人は、いちいち相手の顔色をうかがうようになる。
繋がりを切られたくなくて、相手の言うことを「はいはい」とうなずくようになる。相手に気に入られようと頑張る。
出来ないのに、「できない」といって信用を失いたくなくて引き受ける。結局できないから、信用を失うことになるのに。
SNSでフォロワーの信用を失いたくないから、フォロワーの気に障るかもしれない発言は出来ない。
無難な、平凡な発言しかできず、結果的にフォロワーは離れていく。
そうやって、信用を失いたくない人は、相手の顔色をうかがうばかりの人生になっていく。
信用を失いたくないひとほど、信用を失い、結果的に人が離れていくのだから世の中は皮肉なものだ。
信用を失うことを怖れる人は人生を楽しめない
人の顔色をうかがう人生が楽しいはずがない。
そんな主体性のない人生を生きたいはずがない。
周りの人の目ばかりを気にし、その目に宿る「信用」を損ねないためだけの行動をする。
自分のための行動がしたくても、信用を失いたくないために、相手のための行動ばかりしてしまう。
それが果たして楽しいのか?
また、相手にもそれは利用される。
相手に「自分の信用を失いたくないのだな」と悟られれば、いいように扱われてしまう。
明らかに損をするような交渉でも、Noを突き付けてつながりを切られたくない、そう思う心理を使用され、理不尽な取り決めをさせられる。
信用を失うことを怖れる心理は、損ばかりだ。
何も楽しくない。
信用を失うことを怖れない人は楽しい
信用を失うことを怖れない人は、これまで述べた、怖れる人たちとは真逆の状態になる。
相手に深く依存しない。
相手の顔色をうかがうこともしない。
周りの目を気にすることもない。
相手に利用されることもない。
勘違いしてほしくないのは、信用を失うことを怖れない人は信用が無くてもいい人ではない。
信用とはつながりなのだから、つながりが無くていいという人はいない。
つながりは必要だ。
ただ、「この人」とのつながりに執着しないのだ。
「この人とのつながりが無くなっても、別の人とつながればいい」
それだけと考えるのだ。
これまでの友人がいなくなったら、新しい友人を作ればいい。
その程度だ。
「この人」にこだわらない。
「この人」がいなくなっても、自分の人生は終わらない。
それが分かれば、その人に依存せず、信用を失いたくないと怖れることも無くなる。
信用を失うことを怖れなくてもいい
「この人からの信用を失ったら生きていけない」という人がいたら、思い浮かべてほしい。
その人が突然交通事故で無くなったら?
気が変わってネットの届かないジャングルに移住すると言ったら?
その人が目の前からいなくなったことを、想像してもらいたい。
あなたは自殺するのか?
そんなことはないはずだ。
その人がいなくなっても自分は生き続ける。
逆に、もし死を選ぼうと考えたなら、それは信用ではなく依存だ。依存しているのだと自覚したほうがいい。
信用を失うことを怖れなくても大丈夫。
信用を失ってもあなたは死ぬことは無い。
つながりが無くなって悲しんだり、不安になることもあるだろうが、死ぬことだけは無い。
信用に惑わされず、失うことを怖れない人生を歩んでいこう。