ただいま、加藤諦三先生の「行動してみることで人生は開ける」を読んでいます。 やりたいことは何だろう?と日々模索し、その参考になると思って読んでいます。その本の中でとても興味深いエピソードがあり、そのエピソードに近いことを最近やったことを思い出しました。 今回はその2点について紹介します。 まずはエピソードから。サブタイトルは『”小さなこと”にも億劫がるなー「ノー」を言うこと(2)』。エピソードは以下の通り。 先生はあるスーパーで靴を買った。しかし、帰宅してから靴を見る
ここ最近、ぼくの周りの影響でぼく自身の考えに大きな変化が生まれています。 それによって今後のぼくの行動は大きく変化していく…はずです。 この記事では、ぼくの周りで何が起きたか、そこからぼくは何を感じ、どう変化しているのかをまとめています。 ぼくはミニマリストであり、自称↓ アダルトチルドレン 神経症者 家族への執着 ADHD です。ぼくは今の今までずっと家族に執着してきました。ですが、今の今まで執着していたことに気付かないで生きてきました。その結果が、ぼくは奴隷
ぼくは思う。 「学校に行きたくない」という子どもの意見を、本当に受け入れていいのか? 不登校を許していいのか? 結論から言えば、学校に行かないという行動は許さないほうがその子の将来のためになると思う。 行きたくないと言うのは仕方ないとしても。 そう思った過程、そう考えるに至ったぼくの学校生活についてここから紹介していく。 (先に述べておくけれど、ぼくは心理療法士でもなんでもない、ただの一般人なので、心理学的根拠は一切ない。 すべて経験談として語るものである。) 学校
ペットチャンネルが出演している猫と一緒に売買されたというのが、世間をにぎわせている。 正直な僕の感想としては、「やっぱり出たな」。 それほど怒りは無い。 ぼくは猫は大好きだ。 猫カフェに1人でも通う。 なのに、怒りは感じないというのはおかしいと思われるかもしれないけど、それはペットチャンネルそのものに対して、ペットをただの撮影の道具としか見ていないと思っているからだ。 だから、今更ペットをチャンネルごと売りに出そうが、そういうことを平気でする人間だと思っていたから驚きも
学校からいじめを無くそう。 そう世の中で言い続けてどれくらい経つのか。 いじめが無くなる気配は一向にない。 無くそうとあれこれやって、何の効果も無い。 そこでぼくは思う。 そもそもいじめとは何なのか。 今回のnoteは、ぼくの考えるいじめとは何かをつづっていく。 いじめとは生きる本能によるもの結論から言ってしまうと、いじめとは生存本能がさせているものだと思う。 そう思う理由は、誰も『いじめ』なんか教えていないのに子どもはいじめるからだ。 誰もいじめる方法なんか教え
ぼくにはわからないことがある。 「死にたい」とわざわざSNSで書き込む人達のことだ。 死にたいのであれば、書き込む必要なんてない。 今すぐ死ねばいいことだ。 死ぬことなんて簡単だ。 包丁で手首を切ればいい。 首吊りすればいい。 車のマフラーを車内につなげて一酸化炭素中毒で死ねばいい。 練炭を使ってもいい。 本当に死にたい人はそうやって死んでいる。 死にたいならいくらでも死ねる。 死のうとしても、法律バリヤーなんてもので防がれるわけではない。 神様が、仏様があなたの死を妨
これ、ぼくの実体験。 ぼくはいじめられてた。 名前を変にもじられて呼ばれてた。 上履きが校外に捨てられてたこともあった。見つかるまでスリッパで過ごした。 そんなぼくが、ある日からいじめられなくなった。 理由は単純。 やり返したから。 やり返したと言うと、同じことを相手にしたわけじゃない。 陰湿にやり返したよ。 いじめてた相手のカバンを、ドブに投げ捨てた。 本人にやり返そうとしても逃げるから、逃げられない物に仕返ししてやったんだよ。中には教科書とかノートも入ってただろうね
厳しく𠮟りつける時代は終わった。 これからは優しくほめて伸ばす時代。 ほんとうにそれがいいことだろうか? 他人から厳しくされない時代は、ほんとうにいい時代になるのか? ぼくは思う。人が厳しくなくなったら、社会はますます厳しくなるだろうなと。 どうして矛盾する?人が厳しくなくなれば、社会だって厳しくなくなるはず。そう思うのが普通だと思う。 だけど現実はどうか?社会が厳しくて、生きるのが辛い人たちは増えている。叱られなくなったゆとり世代に、社会はもっと厳しいものとなった。
善意とは、無条件で信じていいものではない。 必ず疑うべきものだ。 無条件で信じれば、その先にはあなたが利用されるだけの未来しかないのだから。 善意を疑うきっかけぼくが善意を疑うようになったのは、↓の本を読んだことがきっかけ。 https://amzn.to/3owIZzb 児童相談所、薬、輸血。 本来であれば、人助けという善意のもとに行われている(と思い込んでいた)行為が、実は恐ろしいほどの闇を隠していた真実。 人の善意を疑いたくない人は絶対読まないほうがいい。 けれ
『正しい努力』って何? 成果が出ていない人に、「それは努力が間違っているから」と言う人がぼくは嫌い。 だって、『正しい努力』とは後だしだから。 正しい努力は結果論正しい努力とは。 間違った努力とは。 この二つを区別することはなんだろう。 それは、成功したかどうかだ。 成功すれば、正しい努力になる。 成功しなければ、間違った努力になる。 努力そのものを見て、正しい・間違っているを結論付けている人はいない。 まだ成功していない姿を見て、人は「あれは間違った努力だ」と評する。
世の中にはやたらと、「信用を失わないための方法」の情報は多い。 「人を裏切ると信用を失う」 「嘘をつくと信用を失う」 信用恐怖症なのが現代の特徴ではないかと思うくらいに、信用を気にする人が多い。 確かに信用を失うことは、ときに人生を左右することにもなりかねない。 信用を失ったばかりに、路頭に迷う人もいる。 信用を失うことを怖れる気持ちがあることも分かる。 だけど、本当にそうだろうか? 人は、信用があるからつながっているのか? 信用できると考えてから、人と繋がることを選んで
SNSやコメントで結構こういう意見がある。 「〇〇は学校で教えるべき」 ぼくは大体こういう意見を見ると、「はっ?」って思ってる。 そう思う理由が3つある。 学校がやるべきという他人任せ 1つ目は、学校という他人に任せる姿勢がくだらない。 SNS全盛期である今、教えることは誰でもできる。 教えるべきだと発言したその人が、今からでも教えることは可能なのが今の時代。 その時代にありながら、誰かが教えるべきだと丸投げする姿勢が実に気に入らない。 自分がやる姿勢が無いのなら
ぼくは思う。 現実は冷たい。 他人はあなたが思うよりはるかに冷たい。 全然気遣ってなんかくれない。 怪我に塩を擦りこむことを平気でする。 自殺した人に対し、「自殺するほうが悪い」「自殺するほど悩むなら誰かに相談すればいい」「逃げればいい」そんな意見は山ほど出る。 これも現実。 自殺した人を誰も助けなかった。 助けなかったのが異常なのか? いいや、助けなかったのが普通。 助けることは、普通じゃないのだから。 あなたが道路で転ぼうが、手を差し伸べる人はいない。 見て見ぬふ
心理学の本を読んで、この世の中の人たちの心が分かった風になっている。 そんなことを自分に思った。 昨日も友人と話していたとき、ぼくはこんなことを言った。 「男はそもそもが弱い生き物。 女性に支えられて、強いと勘違いしただけの生き物なんだ。だからやたらと強いことをアピールする。わざわざアピールするのは弱い犬が吠えるのと同じこと。強さを誇張することこそ、弱い証だ」と。 心理学では、誇張とは欠乏の証明であるという。 そういう意味では、間違ったことを言っているわけではない。
散歩してたらふと思った。 「こんな風に散歩できる自由を失ってまで、会社員に戻るなら死んだほうがまし」 別にそこまで会社員に戻ることを悲観的に思ってるわけじゃないのに、自然とそう考えていた。 そのくらい、今の不規則な、時計に縛られない生活はぼくに合っているようだ。 自由であること。 とくに、時計によって行動を決めるんじゃなく、自分がその瞬間に行動を決めることが、思った以上にぼくに合っている。 「『〇〇をする』を決めることに決断力がいる。だから、あらかじめ決めておくことで
ぼくは最近全然時計を見ない生活をしている。 無職で、規定の時間に出社とか退勤がないから時計の必要性が無くなったから。 それならと思って、室内の時計は非表示にしてみたんだ。 とはいえ、PCに時計表示はあるからそっちは見ちゃうんだけど。 起きる時間も、寝る時間も、食事する時間も、昼寝する時間も全部不規則。 不規則っていうより、何時にやってるか全然わかんない。 朝日が入ってきたら起きて、太陽が真上に来たらご飯食べて、太陽が沈んだら寝る準備。 いつの間にか、太陽に合わせた生活になっ