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フィリピン留学記㉑ホセ・リサールから学ぶ生き様

「ホセ・リサール」


日本人には馴染みのない名前だと思うが、フィリピンでは誰もが知るナショナル・ヒーローである。
リサールの足跡はここアテネオ大学にも色濃く残っている。彼の学生時代の日記では、アテネオでの楽しかった時間や、授業の愚痴などが記されており、我々は今でも授業中に文献としてそれを取り扱っている。
そして、リサールが人生を通して残したメッセージは、フィリピン人だけではなく、留学中の私にも大きな影響を及ぼすようになった。
今日はそんな「ヒーロー」について私が思ったことを記してみたい。

そもそも誰やねん

簡単に言うとホセ・リサール(José Rizal, 1861年6月19日 - 1896年12月30日)は、フィリピンの医師、作家、愛国者で、フィリピン独立運動の英雄である。
彼の偉業と言えばフィリピン建国へと大きくつながる本を2冊出版したことだ。
「Noli me tangere(ノリ・メ・タンヘレ)」
「El filibusterismo(エル・フィリブステリスモ)」

噛まずには言えないタイトルだが、後ほどなぜこのタイトルを選んだかを考察しよう。

19世紀のフィリピンは知識をつけすぎることは身の危険につながる恐れがあったため、あまり留学は推奨されていなかった。だが、彼は学生時代に親の猛反対を押しのけ、こっそりスペインへ単身で留学に向かっている。
なんとその時取得していたのは医学と哲学のダブルメジャー。
スペインで学士号をとった後、フランスで人権宣言の翻訳や眼科学を学び、続けてドイツで社会学を学び、数々の研究成果を残していった。

こう聞くとリサールめっちゃ裕福で実家太いやんと思うかもしれないが。
意外とそんなことはない。
まず、家族がスペインにいるリサールに生活費等を送金すると、リサールが革命を企てているのではないかとフィリピン統治者に怪しまれたため、満足に支援できなかった。
次に、生活がかつかつすぎて食事をろくにしていななかったことが日記に書かれている。
最後に、ドイツで執筆した「ノリ・メ・タンヘレ」は出版費が足りなくて1章丸ごと消すことになっていた。
そんな極貧大学生リサール君はなぜここまでして学び続けたのだろうか。


「Noli me tangere(ノリ・メ・タンヘレ)」

ラテン語で「我に触れるな」という意味を持つこのタイトル。
本は一体どのような内容なのだろうか。

ヨーロッパ留学を終えフィリピンに帰った青年クリストモ・イバラは様々な理想を抱いていた。中には学校を立てて国を再建し、植民地の支配者と被支配者の対等な関係を望むという目標があった。だが、すぐにスペインの修道士や社会を支配する腐敗した役人からの妨害に直面し様々な困難に見舞われる。
イバラは恋人のマリア・クララや友人のエリアスと共に苦闘をするが、幾度もなく理不尽な状況を目の当たりにしてしてしまう。例えば、イバラの父ドン・ラファエルは全うで誠実な男として地元では有名だったが、イバラの留学中に理不尽な理由で異端と不服従の罪で不当に投獄され、獄死してしまっている。
さらに、物語の終盤では国家反逆罪として濡れ衣を着せられてしまうが、友人のエリアスが犠牲となり、何とかイバラを国外逃亡させることに成功した。

つまり、この小説はスペイン植民地支配下のフィリピンにおける社会問題と虐待を暴露する物語でもあったのだ。
私は初めてこの物語を漫画版で読んだとき、よくある善(被支配側)悪(支配側)二元論を摘発する小説かと思っていた。
だが、学ぶにつれ、これはそんな簡単なことではないのかも知れないと感じるようになった。

いつだって本当の敵は自分たちなのかもしれない。

リサールはただ「植民地支配理不尽だよね、やめようね。」というメッセージを残したのだろうか。そんなはずはない。
物語の中には支配者の言いなりになり、理不尽に対して口をつぐむ人たち。自分たちの同胞がやられていても何も言わずに見ないふりをする人たち。権力にすり寄り、自分だけ生き残れればいいと私利私欲を貪る人たち。が幾度もなく風刺的に描かれているのだ。
例えば、シサというキャラクターは幼い2人の少年の母親だ。ある日教会でお手伝いをしている2人の息子が、金を盗んだと言われ、その日を境に帰ってこなくなっている。教会の兵士がシサを捉え、恐怖のどん底に陥れ、幾度もなく問い詰めます。最終的に息子も見つからずシサは狂ってしまい、奇声を発しながら街中を歩いていくが、彼女を助けようとする者の描写は一度たりとも登場しなかった。

リサールが描き出した世界は現代でも身近にいくらでもある現象なのではないだろうか。
なにかを必要としている人たちを眼の前に無関心を装う人たち。いじめにあっている人を見てみないふりをする人たち。どうせ何も変わらないよとあきらめただ服従する人たち。身の丈に合わない服を買い、富を強調する人たち。
リサールが本当に悪だと思っていたのは植民地支配そのものではなく、何もしない、気づこうとしない私たちだったのではないだろうか。
「私に触れるな(Noli me tagere)」触れられると激痛が走るその深い傷は、誰かが伝えないといけない内容だったのかもしれない。

我が祖国へ
人類の逆境の歴史には、刻み込まれた癌があります。それは非常に悪性で、ほんの少し触れただけで悪化し、最も激しい痛みを引き起こします。そのため、私は現代文化の中で何度もあなたを呼び起こしたいと思っていました。時にはあなたとの思い出が私を慰めてくれるため、また時にはあなたを他の国々と比較するためです。あなたの愛すべきイメージは、同様の悪性の社会的癌に苦しんでいるように見えることが何度もありました。(執筆者訳)

Rizal, Jose. Noli Me Tangere. Penguin Classics, 2006.

この祖国にできた癌を治療するための特効薬をリサールは本を書くことで作ろうとしたのかもしれない。
だが、果たしてそれは作れたのだろうか。

個人的に、私はまだ製薬の段階にいるように感じる。
彼が作り出した薬の効き目はまだ薄いが、もっと多くの人が学び、考え、悩むことでその薬はもっと服用され、やがて本当の効力を発揮し、癌をも治療する特効薬が完成する日が来るだろうと信じる。
それが医者であり、文学者であり、しがない大学生だった彼が願った未来なのかもしれない。

その後

1896年12月26日、リサールは軍法会議にかけられ銃殺刑が宣告された。多くのフィリピン国民が見守る中、若干35歳という年齢でその最期を迎えた。
彼がヒーローたる所以は決して祖国のために犠牲になったからではない。一挙手一投足が生きざまとなり、我々への道しるべとなってくれているからだと思う。
そして今日、
共和国法第1425号はフィリピンのすべての教育機関にホセ・リサールに関するコースを提供することを義務付けるフィリピンの法律。が制定されている。彼の意思はまだ生き続けていると願うばかりだ。


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