フィリピン留学記⑳Mt.Pinatubo(ピナトゥボ山)で旅の意義を考える
1991年6月21日噴火したピナトゥボ山はフィリピンのルソン島西側に位置する火山である。噴火直後にフィリピンは経済的にも社会的にも甚大な被害を受けた、特にピナトゥボ周辺に居住していた先住民のアエタ族はその生活様式を手放すことを余儀なくされた。だが、噴火した後にできたカルデラ(火山の活動によってできた大きな凹地)はいまや毎日観光客でにぎわっている。
今回のお話は電波もWifiも届かない山で目にした「景色」と「人たち」についての旅の記録である。
旅の始まり
今回の旅は深夜出発、夜帰還の日帰り登山旅行である。旅の総額は3100ペソ≒8000円。少し割高なパッケージツアーに感じたが、登山はフィリピンで経験したことがなかったため参加することにした。
旅費を支払ったあとに旅のスケジュールを主催側から送られてきたのだが、目を通すとその内容には少し違和感を抱くほかなかった。
旅の持ち物一覧に
「アエタ族に分けられるお菓子、教科書やおもちゃ(任意)」と書いてあったのだ。
もともとピナトゥボ山周辺にアエタ族が居住しているという情報は人類学の授業などで聞いていたが、お菓子や教科書を分けるとは一体どういうことなのか?という疑問が頭に残ったまま、旅に出る支度をした。
(実際旅の道中でその光景を目の当たりにするのだが、自分の違和感センサーに突き刺さったため後ほど詳しく説明しよう)
相変わらず集合場所が深夜のマックなのだが、様々な旅の苦難を乗り越えた私は事前の仮眠による「寝貯め」というスキルを手に入れていた。
13人の旅仲間たちとヴァン(小型バス)に詰め込まれ、法定速度をギリギリ超過しているスピードで高速道路を突っ切った。その道のりはまるでシェイカーに入ったプロテインになったような気分である。
到着したのは深夜4時ごろ、眠気と吐き気が合わさった気分は正に絶望そのものだった。この状態からの登山するのは山に失礼かもしれないと思いながら、いつまでも開けない夜空を見つめるしかなかった。
4人乗りの4輪駆動車に乗るために仲間たちとグループ分けをしてから、朝食を胃袋に敷き詰めて、車に再度乗り込んだ。
頂上への道のりと目の当たりにした景色
目指すはピナトゥボ山頂上から見える全長2.5kmもあるクレストである。写真で見るその姿は「君の名は」で登場した隕石の降ったあとの糸守湖に非常に似ており、ぜひ本物を目の当たりにしたいと心を膨らませた。
登録用紙への必要事項の記入と契約書への署名と入山料をガイドに支払い、四駆の登山車に乗り込んだ。
ガッタガッタの山道を突き進み、濁流の中も気にせず突っ切る。タイヤの回転により跳ね上がった水しぶきはスプラッシュマウンテンのように座席にしがみつく我々の身体に降り注いだ。
道中で見た雄大な山々と水牛が放牧されている自然豊かな景色には思わず心が魅了された。日常的な些細な悩み事が吹き飛ぶほど、母なる自然は我々より遥かに大きい。
しばらく走っていると先方にジープが数台駐車されており、多くの子供たちがその周りを取り囲んでいた。よく見るとその子供たちは黒褐色の肌と縮れた頭髪、それからつぶらな瞳をしているアエタ族の子供たちだった。
「なるほどここでお菓子を子供たちと分けるのか!」
と思った矢先、激しく嫌悪感を抱く光景を目の当たりにしてしまった。
子供たちをその場にいないものと捉え山を背景に写真撮影をする人、
群がる子供たちに向かってお菓子を巻き散らかす人、
車の窓の外から飴を放り投げ子供たちに拾わせる人。
その光景は見るに堪えないものでしかなかった。
金魚の餌やり?サファリパーク?それとも公園の鳩?
私の価値観に照らし合わせると彼らの行為は同じ人間に対して行うことだとは到底思えなかった。
だが、もしかするとこれは私が自文化中心的に考えすぎていただけなのだろうか。もしかするとアエタの子供たちはそれで幸せに生きられているのかもしれないという可能性を捨てきれずにいた。
登山翌日、頂上の景色よりもアエタ族の現状が気になり、家に帰ってピナトゥボ周辺の歴史を調べることにした。
旅の意義を考える
1991年の火山噴火によりアエタ族は自分たちの故郷からの撤退を余儀なく命じられた。最初の2,3年ほどは政府やNPOからの支援があったものの、徐々に打ち切られ、現在でもアエタ族は生き残るための生存戦略を模索しながら生きながらえている。
その火山噴火から現在までに生活を復興させるまで様子を清水先生(2021)は如実に描き出し、アエタ族がいかに新たな生業を模索するのに長けているのかを力説した。
復興が進むにつれ平地での定住をする物や自分たちの土地へ戻り伝統的な生活様式へと戻っていった者もいる。
私も様々な文献を読み進めていく中でアエタ族の葛藤や苦悩を知ることができ、旅の途中で出会った彼らがただの先住民だと思っていたことをいまでも悔やんでいる。
自然災害によりすべてを失ったアエタ族に対して、彼らの土地に踏み入れる我々観光客は何ができるのだろうか。
それは子供に向かってお菓子をまき散らす行為なのだろうか。
「そんなこと考えてなかった」「結果的に子供がお菓子手に入れてるからいいだろう」
という主張もあると思う。
だが、そこには客としての思いやりも敬意が微塵もないだろう。
これは私自身にも返ってくるのだが、パッケージツアーに申し込む観光客はその土地の歴史やそこに住む人々の生き方や現状など事前に調べたりすることは至極珍しい。
だからこそ人の家に土足で踏み込んでも何も感じることはないだろうし、ツアーが終われば自分とはもう関係がなくなる「他人」だと思うことができる。
私はこの現象に「脳死旅行」という名前を付けたい。
初めから誰かに用意された道順にそって歩き、ととのった舞台を思考も介さずに「綺麗だ、楽しい」と思い込む。そして、舞台裏のプロデューサーや脚本家にいともたやすく操作され、大切なものも得ずに金銭と時間だけを失う。そんな旅が現代社会では主流となってしまっている。
君たちが旅先で見た景色は果たして何が綺麗なのだろうか。踏み入れた土地はそもそも誰のものなのだろうか。なぜ旅にでたのか。
そんなことを考えさせられた旅だった。
旅の終わりに
歩いた歩数は合計3万歩ほど、正直体力的にはまだ余裕があったが悩んだ後の脳はそれほど機能していなかった。私が旅に求めるものは一言で言うと「偶然性」である。たまたま向かった先での新たな出会いや別れ、感動する景色、口にしたことのない味。一つ一つの経験が私の知恵となり、狭かった世界を少しだけ外側に広げてくれる。そのチャンスに期待して今日もお金を払う。まるで旅ガチャを回すかのように、次の出会いに期待して今日も自分の人生というゲームに課金する。
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