「違国日記」私の好きな物語の話。
「それでもお互いは1人であった。」
映画のラストシーンで私はこう思っていた。
先日情報公開からとても楽しみにしていた映画を観てきた。
「違国日記」(いこくにっき)
なにで知ったかはもう覚えていないのだけど私はこの漫画が大好きで、一度読んだらなかなか読み返すことのない私がもう何度も読んだ本、ハマった漫画である。
漫画といえばすぐに読み終えてしまうもの、そんなイメージが私はある。
だけどこの作品は文字を描かずに絵だけで進んでいくシーンなど、その意味を考えるような余白がたくさんある。
だから「実はこの時こう思っているのでは?」と思ったり、描かれていないところを想像してみたくなる。
"ゆっくり自分のペースで読める映像作品"のようでは?と考えていた。
そんなこの作品が映像で見られることを楽しみに映画館へと向かった。
そこにはちゃんと私の好きなこの世界があった。
(個人的には少しイメージと違うかも?と感じていた部分があったのだけど、それは要らぬ心配でこの作品に漂う雰囲気は変わっていなかった。)
槙生は亡くなった朝の母の妹であり、朝の叔母にあたる。小説家であり、人と関わることが少し苦手なタイプの人間。
一方の朝は知りたがりな時期の高校一年生。
槙生は朝が関わってきた "大人"とは全く違う存在で、普段は"大人をあまりしない人"だった。
掃除が上手で、わからないことはなんでも教えてくれる、それが母という存在だからこそ朝は槙生の姿に戸惑う。
両親とは生まれた時から近くにいて、甘えさせてくれることが当たり前で、なにを言っても最後は許してもらえる、それが当たり前だった世界に
槙生は朝を子供とは見ずに1人の人間として接しているように見えた。
それは朝の人生に途中から参加しているからこその距離感で、1人の人間として「大切にしなくてはいけない、大切にされるべきだ」という考えであるように見えた。
朝も少しずつそんな槙生の距離感に慣れていく。
お互いがお互いを尊重しながら生きている、だけど自分の考えを覆すような
「大人だからこそ飲み込むべきもの」というような無理な寄り添い方はしない。
一緒に暮らしているけれど、お互いの近くにお互いはいるのだけれど、
わからないことはわからない、
それでも2人は1人ずつであることを選んで生きていくのだなと私はそう感じた。
物語の中の2人はいろんな感情を見せてくれる。
多感な時期だからこそ生まれること、言葉にならない気持ちを抱える朝、
そして大人だけど大人になりきらずに生きていく槙生。
映画はその気持ちをありありと見せてくれた。
漫画では紡ぐ言葉がより多い。
どちらの違国日記も好きになれてよかった。
そんなことを思いながら書きました。