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往来して、様々な愛を再認識。やっぱ、愛がなくっちゃね。

愛を再確認する行為は、自分の中にエネルギーが蓄積される。


内覧会にも参加させて頂いた六本木クロッシング2022、往来オーライ!


個人的にとても好きなパートがあるので、そこについて今日は書いてみたいと思います。
Curationする側からすると心外かもしれないけど私は「展覧会を自分の好きなように解釈する」のが好きです。作品の配置に自分なりに物語をどう感じるか。想像を膨らませるのが好きなんです。単なる妄想癖です。


今回の往来オーライ!では私は入ってしばらく経った後、私の好きなストーリーが始まります。



突然ですが、松田修という作家が好きなんですよ。私は子供と一緒に15年以上アートを見ているということを続けているのですが、松田君は「作品に出会う前に作家に会った珍しいタイプ」です。彼の人間性がとにかく最高なんですね。
うちの子供も松田君が大好きで大好きで松田君はにんげんレストランで繋がれてた時心配で必死に差し入れをしてましたね。

彼からは以前、直接「俺のおかん、マイク・タイソンに似てるんですよ!」って話してもらったことがあったので(聞いた時ほんまにびっくりした)、お母様らしき女性が登場するこの《奴隷の椅子》を全部拝見出来ることを心待ちにしていた。
ちなみに椅子はお母様のお店「スナック太平洋」の椅子なんだけど、他の椅子は「地中海」というお店から持ってきたそうで。小さな部屋の中で感じる世界の海。世界は様々。愛は様々。


池田宏さんのアイヌの人々を主題とした映像インスタレーション作品《AINU 2019-2022」シリーズ》を拝見してると胸が締め付けられます。
彼らはアイヌ民族というカテゴリーを標的とされ、勝手に被写体として乱用され続けてきたそうです。その彼らを写真作品に収めて撮影禁止にすることで愛を行動に示しているこの展示。こんな形の愛もあるのだなと。(ここは写真撮影禁止)



そしてキュンチョメ。
この作品、私は2019年の夏、あいちトリエンナーレが開催される前の日に実は拝見させて頂いているんですね。
その時は小さなビル群のある階での展示でした。映像ももっと荒々しく、そして人々は地べたにクッションに座って鑑賞したのを覚えています。

2019年の夏の愛知は本当に様々なことがありました。まだ外国に住んでいた立場だったのに、あのあいちトリエンナーレの展示をほぼ完全な形で実際に鑑賞できたのは奇跡に近いと思ってます。それはキュンチョメのおかげなんですね。本当に感謝しかありません。

あの時に感じた様々な愛のかたちに寄り添うというスタイルは本当に愛を感じました。そして、人に実際に寄り添うことすら許されない時代が来るなんて想像していませんでしたね。


そして折元立身さんの世界へ。様々な愛の形を経て究極の愛って介護な気がするんですね。私は9年間東南アジアにいて、そのうちの3年間日本に全く帰れなくなりました。一番心配したのはその3年間を基本ひとりで過ごした高齢の母。今、この時に母が倒れたら私は駆けつけられないのかと思うと急に怖くて汗だくで飛び起きたこともありました。同時に癌サバイバーである自分が外国でコロナに感染して重病になったら家族はどうなるのか、特にこれから進路を迎える息子はどうなるのか、心配が止まらなくなって汗だくで震えた夜もありました。

ただ、この孤独な夜って別にロックダウンで閉じ込められた私に限った話ではありません。痴呆と病気で弱っていった夫が寝てる部屋のドアを閉めながら不安を感じた母、夫を施設に送った後、ひとりで寝てる母も自分がどうなるのか心配になる夜もあったでしょう。

孤独との戦いと共に人は生きる。そして老いていく。だからこそこの折本さんの「かつての母と同じような高齢の女性を集めて食事会を開く」という活動はその孤独もひっくるめてあなたを愛するという愛の形の1つだと思うのです。


ここまでくると、もう涙が止まらない。


そして愛とは。。と感慨に浸っているところに横山奈美さんの作品で「LOVE」を脳内で再総括するのです。

そして総括が終わった後の俺たちは無敵。ブレードランナーのような世界が実際に来ても俺たちは生き残る。という自己愛や愛するひとへの愛を日本人として好きな食事の1つである「寿司」与え合うという行為を市原えつこの《未来SUSHI》で体験するわけです。もう俺たちは無敵です。


私は個人的に「回転寿司には様々な愛が溢れている」と思っています。男女の愛だけはない。ああ、こんなにたくさん食べるようになったんだ。。という親子愛、とってあげるよ、と年老いた親の皿を取ってあげる際に感じる親子愛、様々な愛を感じられる場所、それが回転寿司だと思っています。

あのゾーンは様々な愛を感じ、自分の中の愛を再確認し、そして不安しか感じられないディストピアな未来に対して生きれるのではないかという希望までを渡してくれるプロセスがあると感じています。


このように、展覧会の中のゾーンに関して自分なりにストーリーを感じて鑑賞することは私に取ってはゲームのようなものです。これは私が子供が小さい時から共に美術館で鑑賞をしていた際、親子で行っていたゲームの続きでもあります。

隣り合うものには必ず理由があります。食器棚だって、本だって、隣に置くには大なり小なり理由がある。理由は単なる大きさだけかもしれない。でもその理由からストーリーを感じたら楽しいじゃないですか。


やっぱ、愛がなくっちゃね。