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爆発するような前へ:最近のこと

小さな吐息をじっと見つめる静かな時間が過ぎていく。
たまに覗くSNS上の賑やかな世界も、今は随分と遠く感じられ、私はいつか、またここに戻れるのだろうか、ふとそんな風に思うこともある。と同時に、世界にはこんな風に外界と接触もなく、宙に浮いたような空間がいくつもあり、その中で生きている人たちがいるんだろうと想像する。

パチンという感触があったかなかったか、生ぬるい大量の液体がバシャバシャっと股間を流れた。3日目にして人工破膜を選んだ私は、その後戻りのきかない重すぎる決断に、分娩台の上で過呼吸になるほどに泣いた。
「彼はまだ、そこにいたかったのではなかろうか」、「彼の大事なものを取り上げてしまったのではなかろうか。」
と同時に、重さに苦しんだ、まあるいお腹との日々も、「39週3日」という月日を共にする中で、これほど愛おしく思っていたことに気づいた。


結果的にはこの選択は正しく、予定以上に長引いた計画和痛分娩は、なんとか無事に終わりを迎えることができた。
股の向こうから、ぬるりとした液体と血液とともに姿を現した我が子は3303gと大きく、元気な産声とともに生をスタートさせ、その横で私も、わんわんと大声をあげて泣いた。

彼は去った。私から。
かたまりが爆発するかのような感動だった。
「さあ!どこまでも走ってゆけ!」
そう思った。

人生で初めて、女性の身体の凄さを味わった瞬間だった。
思えばこの時を迎えるまで、日々変化する自分の身体に驚き、戸惑い続けた。最初はつわりに襲われ、その後は、少しずつ腹部はもちろん乳房も瓜のように膨らみ、私の体はまるで「ヴィレンドルフのヴィーナス」ようになった。
生命は激しく、前進しかなかった。
粒のような細胞は分裂を繰り返し、立ち止まることは許されなかった。

「子を宿す」という、唯一女性の身体にしかできないことをしながら、世間でいう「理想的な女性の体」からは遠くかけ離れ、毛は濃く、動物のようになった。
そして彼が離脱した今も、大きく迫力のある乳首から泉のように吹き出す母乳を、哺乳瓶と小さな我が子の口で受け、その姿はほとんど神(あるいはバケモノ)のようだ。そう、これが女なのだ。

これから、この小さく激しい命とともに生きていく。
思えば、一年前、子どもを欲しいと願う感情に戸惑いがあった。
なぜならそれは別人格の「他者」を欲しいと言っていることに他ならず、ある種の危険な感情のようにも思えていたからだ。
それでも私は欲しいと思った。整理はつかなくとも欲しいと思った。

妊娠中、ロシアが戦争を始めた。
それは、根源的に子を欲しいと思う気持ちの全否定だった。

それでも、命には前進しかない。
もちろん、誰かに定められるような「前」ではない。
爆発するような前に向かって、我が息子が歩み始めた。
















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