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【小松理虔】拙速すぎるトリチウム水海洋放出(月刊政経東北2018年10月号より)

「対話軽視」が露呈した国の公聴会

 トリチウムなどを含む汚染水をいかに処分するのかについて市民から意見を聞くための経済産業省「多核種除去設備等処理水の取扱いに関する小委員会」の公聴会が、2018年8月末、双葉郡富岡町、郡山市、東京都千代田区の3カ所で開催された。いわゆる「トリチウム水」の取り扱いは、廃炉をいかに進めるかだけでなく、福島の漁業、ひいては地域再生のための重要課題の1つだ。本稿では、筆者が参加した富岡会場の公聴会を振り返りつつ、あらためてこの問題について考えていきたい。

トリチウム水写真:公聴会は3カ所で行われた(写真は郡山会場)

3会場で行われた公聴会(写真は郡山会場)

 富岡町で開かれた公聴会は、2018年8月30日、富岡町の文化交流センター学びの森で開催された。大ホールの席が埋まっているのはおよそ3分の2ほどだったろうか。意外にも空席が目立ったが、平日の昼間の時間帯である。仕事をしている人は来ること自体難しい。わざわざ会場まで来た方の関心はやはり高いということなのだろう。会場の外では、トリチウム水の海洋放出に反対する人たちが声をあげて抗議をしていた。

 公聴会ではまず、これまでの廃炉、汚染水対策などの中身について事務局が説明を行った。廃炉のためには、原子炉建屋に残った使用済み燃料や、溶けて固まったデブリを取り出す必要があること。そして、取り出すまでそれを水で冷やし続けなければならず、大量の汚染水が発生してしまうこと。さらに、その汚染水を多核種除去設備(ALPS)で濾過しても、トリチウムなどの放射性物質は分離できていないことなどが説明された。続いて公募で選ばれた14人の方が、それぞれに意見を表明。1人を除く13人がトリチウム水の海洋放出には反対という立場だった。

 とはいえ、反対の立場にもグラデーションはある。トリチウムそのものの危険性を危惧する意見もあれば、安全であることは理解するも風評被害を危惧する人もいる。議論の不足を反対理由にあげる人もいた。そこに共通するのは、国や東電に対する不信感であるように感じた。

 印象的だったのは、やはり福島県漁連の野崎哲会長の意見であった。

 トリチウム水の放出を「築城十年、落城一日」と批判したうえで、「国民的な議論を行い、国の責任を明確にしたうえで国が判断すべき問題だ」と、漁業者に責任を押し付けるような国の姿勢、態度そのものを強く批判したのだ。

 「国はトリチウムの安全性を強調するが、性質や危険性について国民に認識されているとは言えず、数値の大きさが先行すれば風評被害が起こるのは必至。魚価の暴落、操業意欲の減失、漁業関連産業の衰退を招くことになる。まさに築城十年、落城一日だ」。そう語る野崎会長の意見には、これまで漁業者が費やしてきた膨大な時間や苦しみだけでなく、トリチウム水の放出をめぐる問題点が凝縮されているように感じた。

 これまで経済産業省のタスクフォースで検討された処分方法は、①地層注入、②海洋放出、③蒸発させ水蒸気放出、④電気分解し水素として大気放出、⑤コンクリート固化して地下埋設と、手法の違いこそあれ、いずれも環境に放出することに変わりはない。仮に環境に放出するのであれば漁業関係者への説明だけでは足りないだろう。やはり国民、一般消費者に対する丁寧な情報発信が絶対に必要だ。

トリチウム

 野崎会長によれば、県漁連はこれまで一貫して「漁業者、国民の理解を得られない海洋放出は絶対に行わないこと」を要望してきた。しかし、経産省からの回答は「関係者の理解なしにはいかなる処分も行わない」という文言にとどまる。野崎会長が「国民の理解」という言葉を用い、経産省が「関係者の理解」という言葉に止めていることに問題の本質があるように感じる。漁業者に責任を負わせているようにしか見えないのだ。これでは、漁業者や国民からの信頼を得ることは絶対にできないだろう。

圧倒的に足りない「国民への説明」

 トリチウム水の取り扱いに関して流布されるイメージに、「福島県の漁業者が反対しているために処理水の処分が進まない」というものがある。簡単に言えば、トリチウム水は世界中の原発で海洋放出されており、経済的な合理性もあるのに、福島の漁業者がゴネているから処理が進まない。つまり福島の復興を阻んでいるのは福島の漁業者なのだ、というような意見だ。しかし、なぜ漁業者が拒絶するのかを考えねばならない。筆者は、やはり国や東電による説明不足が根幹にあると考える。

 福島の漁業者が懸念しているのは野崎会長の意見でも語られているように「風評被害の再燃」である。これまでのマスコミ報道などを考えると、海洋放出となれば、数値の大きさだけが先行して国内外に伝わっていくだろう。あるいは政治的な思惑によって誇張されて伝えられることもあるはずだ。

 そもそも放射線防護学は国民の間には普及しておらず、多くの国民にとって「トリチウム」は未知の存在である。そのような状況で大量放出の事実が伝えられれば風評被害が再燃してしまうのではないか。これまでの風評被害の経緯を考えると漁業者の懸念は責められない。

 国や東電は「漁業者に対して丁寧に説明していく」と繰り返すが、漁業者の多くはトリチウム水が世界中の原発で放出されていることなどとうに承知だ。ならば、丁寧に説明しなければならないのは「国民に対して」である。

 例えば、大消費地・東京の消費者の多くが「トリチウムは世界中で流しているみたいだし大丈夫だろう」と考えてくれるようになれば、風評被害はある程度抑えられるかもしれない。では、そのようなアプローチを国や東電は行ってきただろうか。それを行わず「漁業者がゴネている」ような構図を作ろうとするから、余計に漁業者や地元のステークホルダーの信頼が得られず、対話の場すら持てないのではないだろうか。

 総理大臣、少なくとも復興大臣クラスの人たちがもっと国民に対して説明すべきだ。海や大気はつながっているのだから、放出を検討するのであれば周辺各国への説明も求められるだろう。

 また、今回の公聴会に前後して、また信頼を毀損する問題が起きた。当初「トリチウムだけ」とされていた処理済水のなかに、トリチウム以外の核種(放射性ヨウ素やルテニウムなど)が含まれていることが報じられたことだ。「薄めれば問題ない」という人もいるが、そこが問題なのではない。これまで「ALPSで除去できないのはトリチウムだけ」という説明の前提が崩れたことが問題なのだ。おまけに、今回の公聴会で示したデータは2014年のデータで、トリチウム以外の核種の基準値超えが数十回も起きていた2017年ごろのデータには一切触れられなかった。こういうことをするから対話が成立しないのだと思う。

 今回の公聴会では多くの人が反対の声をあげた。このような現状を見て「国民に対して説明しても反対派に邪魔されるのではないか」と考えるような担当者もいるかもしれない。しかし、だからこそ逆に「広く国民に伝える」ことが必要なのではないだろうか。

 たった数回の公聴会では目立った人たちの声しか当然聞こえない。地域の公民館や集会所などを歩き、丁寧に意見を傾聴していくことも必要だろう。地道に対話を進めていくプロセスのなかで不安が吐露されたり、信頼が構築されたりすることもあるはずだ。賛成派が、反対派がと相対する陣営の文句ばかり言っていても状況が動かないことは、この7年半を見ればわかることだ。

地域の再生を考えた議論を

 過去に重大な事故などを引き起こしたイギリス・カンブリア州の原子力発電施設・セラフィールドでは、現在、2120年完了を目標に放射能汚染の調査や処理、解体などを進めている。廃炉工程に必要な技術や機材の開発も行われているそうだ。まさに「福島の未来」を行く土地である。

 実は2年ほど前、筆者はこのセラフィールドの関係者から直接話を聞く機会があった。その担当者は、事故に真摯に向き合い、責任を持って地域住民と対話の機会を持たねばならないと語っていた。仮に相手が非科学的な考えを持っていたとしても排除せず、企業の責任として、多くの関係機関とともに地域の合意形成に当たらなければならないのだと。

 実際の状況を見たわけではないので話を全て信じることはできないが、このような姿勢は国や東電にはあっただろうか。どうせ反対されるに決まっている。どうせ科学的な理解などできない。面倒だ。そう考えていなかっただろうか。

 トリチウム水以前に、「廃炉」そのものがどうあるべきかを考える機会も、どのようなプロセスにあるのかを知る機会も少ない。爆発した原発の現状すら共有されていないのに、トリチウム水をどう扱うかを議論することは難しいだろう。

 国や東電は、トリチウム水も含め、廃炉をいかに国民・県民とともに進めるのかを考え、意見を聞く場を設けなければならないのではないだろうか。少なくともその議論を進める間、トリチウム水はタンクに保管すべきだ。今の段階での海洋放出など当然認められない。

 必要なのは、浜通り地域の再生を国や東電も含めて今一度考えることではないだろうか。私たちはどのような地域を目指すのか。どのように漁業を復興させるのか。一度大きな問いを立て、ビジョンを共有しながらトリチウム水の扱いを決めるというような時間をかけた対話が求められている。なぜそのような遠回りな議論が必要かといえば、漁業の振興は、地域の水産業だけでなく観光業などにも関わり、シビックプライド(編集部注・都市に対する誇り・愛着)の情勢や、広い意味での「地域づくり」に大きく関わる問題だからだ。

 トリチウム水を投棄すれば、風評被害の再燃が懸念されるばかりでなく、漁業関係者のさらなる賠償を生み出す。賠償が続けば漁業関係者の収入は確保できるかもしれないが、流通は「福島県産抜き」の状態で成立していく。いずれ復活したとしても棚を取り戻すことは難しくなってしまう。そうなれば、また賠償に依存せざるを得なくなってしまうし、漁業の担い手も減り続けるだろう。地域全体を見渡せば、経済的とされる海洋放出が本当に経済的かは疑問符をつけざるを得ない。自立こそが低コストなのではないだろうか。

社会を今一歩成熟させるために

 これまでの7年半、原発事故に関する問題の多くは、徹底して賛成するのか徹底して反対するのか、そのどちらかに分断されてきた。しかし、実際には、賛成と反対の間に無限のグラデーションがある。国や東電にはネット上の極端な意見に左右されず、しっかりと〝現場感〟を確かめながら慎重に議論を進めてほしい。

 トリチウムとは何なのか、かつてどのように処理されていたのか、その危険性なども含めて国民的な議論を尽くすこと。メディアを通じて発信するだけでなく、地域の公民館や集会所などにも話を聞きにいくこと。同時に、福島の漁業再生のビジョンを、漁業者だけでなく広く消費者も含めて考えていくこと。少なくともその議論の間は、トリチウム水をタンクに保管すること。やるべきことはたくさんあるはずだ。

 トリチウム水がクリアできなければ、これから議論になるであろう「最終処分場」をどうにか着地させることも難しいだろう。トリチウム水を、社会の分断ではなく地域社会を成熟させるための肥やしにできるか。国や東電だけでなく、私たちもまた試されている。そのことを強く感じさせる公聴会だった。

こまつ・りけん 1979年、いわき市小名浜生まれ。ローカルアクティビスト(地域活動家)として、地域に根差したさまざまな活動を展開している。『新復興論』(ゲンロン叢書)で第18回大佛次郎論壇賞を受賞。編集・ライターとして関わる「いわきの地域包括ケアigoku」で2019年グッドデザイン金賞受賞。
twitter:https://twitter.com/riken_komatsu




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