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【記者の視点】処理水海洋放出は県民投票で決めろ

「自分さえよければそれでいい」人たちへ

 昨年4月、15年暮らした東京から地元・福島市に帰ってきて、本誌編集部で働いている。

 筆者が東京に住んでいたときは、福島第一原発を「行く理由のない場所」「特に関心のない場所」と思っていた。

 しかし、その考えが一変したのが帰還困難区域内の国道6号を通った時だった。防護服を着た警備員や道路沿いの民家の出入り口にあるバリケードを見た時は衝撃を受けた。

 その後、取材で原発付近を訪れるたびに、モニタリングポストが示す高い数値、ガイガーカウンターの警告音、荒れ果てた町並みや立ち入り禁止の看板、厳重な警備の福島第一原発や中間貯蔵施設などを目にしてきた。

 筆者は、放射線が「人体に害を及ぼす危険なもの」という単純で当たり前のことをようやく実感した。

 翻ってトリチウム処理水。もし東京に住み続けていたら、深く考えることなく「海に流せばいい」と思っただろう。今は違う。被災者を取材し、その土地土地の食べ物を味わうなど、そこに住む人たちの営みを知るにつけ『自分さえよければそれでいい』とは思えなくなった。

 『自分さえよければそれでいい』人たちとは、福島県外に住む人たちであり、自分の近くにトリチウム処理水を流さなければあまり影響がない人たち、もっと言えば「そうであったかもしれない自分」や「そうなるかもしれない自分」を想像できない人たち、を指す。

 そういう人たちは、得てして「韓国も原発排水を流しているのに、なぜ日本は流さないんだ」「トリチウム水は安全だ」「信頼できる説明があれば流してもいいのではないか」などと言ってしまうものだ。

 文学者の内田樹氏は著書『サル化する世界』(文藝春秋)の中で、このように述べている。

 《日本のビジネスマンたちが長期的に日本列島を安全で住みやすい環境として維持することには特段の関心を持っていないということがよくわかります。(中略)
 また原発事故が起きて日本列島が居住不能になっても、そのときは日本を出て海外でくらせばいいと思っているからです。現にそういう切り替えができる人たちが日本では指導層を形成しているのです》

 私たち福島県民にとって、トリチウム処理水をめぐる議論の相手は、こういう「共感を求めても意味のない人」たちなのだ。筆者もその立場にいたので、共感を求める難しさはよく分かる。かつて東京で、原発に関心を持たずに暮らしていた自分自身にどう関心を持たせるか、という話でもある。

 福島でいくら海洋放出反対を叫んでも、中央の中枢には届かない。

 ではどうすべきか。それは、本気度を示さなければならない。

 私は「県民投票」がその本気度を示せる唯一の方法だと思っている。

 沖縄県は、辺野古米軍基地建設をめぐる埋め立ての賛否を問う県民投票を実現させた。市民団体が直接請求に必要な有権者の50分の1(約2万3000筆)の約4倍に当たる9万2848筆の署名を集めて知事に提出し、県民投票実施に向けた条例案提出につなげた。2019年2月に行われた県民投票では「埋め立て反対」が72.15%に達し、県民の意思を国に示した。

 ただ沖縄県と福島県の大きな違いは、議会構成と知事の姿勢だ。

 沖縄県政の与党は社民党、沖縄社会大衆党、共産党などが中心で、玉城デニー知事は辺野古への新基地建設に反対して当選した。

 一方、福島県政は共産党を除いてオール与党状態。内堀雅雄知事はトリチウム処理水について「国の処分方法決定後に県の見解を示す」と、自身の意見を述べようとしない。

 及び腰の知事・県議会は、今こそ仕事をする場面ではないのか。

 もし県民投票の実現を目指す人が現れれば、筆者は全面協力したいと思う。        

 (佐藤大地)



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