【小松理虔】トリチウム水問題、本当に議論尽くしたか(月刊政経東北2018年2月号より)
原子力規制委員長「放出賛同」発言の是非
ここのところ福島県内のメディアで報じられている福島第一原発の「トリチウム水」の問題。原子力規制委員会の更田豊志委員長の発言を皮切りに、福島県の内堀雅雄知事、経済産業省の世耕弘成大臣、さらにはネットやSNSを巻き込んでの議論に膨れ上がっている。
きっかけは、更田委員長が双葉郡の町村を訪れた際、汚染水を浄化した後の放射性物質・トリチウムを含む処理水は希釈して海洋放出するのが唯一の手段だと指摘したことである。例えば、1月11日配信の産経ニュースには、楢葉町を訪れた更田委員長が「今年中に意思決定できなければ、新たな困難を迎えることになる」と地元に決断を迫るコメントが紹介されている。トリチウム水をどうするか。漁業の復興に直結する問題だけに関心も高い。
トリチウムとは「三重水素」ともいい、水素の放射性同位体で、放射線の一種であるベータ線を放出する。ただ、エネルギーはセシウムなどに比べて低く、細胞を突き抜けることもできないため、外部被曝を考慮する必要はほとんどないとされる。震災・原発事故前は、全国の原発で基準に従って海洋放出されていたものだ。しかし、福島第一原発の場合は、高濃度の汚染水処理の過程で、このトリチウムを含んだ処理済み水が、タンクにして1000基以上分残ってしまい、日に日に量が増している。このため政府や東電は、希釈して海に放出しようと考えているわけだ。
ネットに投稿された意見を見てみると、海洋放出に賛成だという人は「安全が証明されている」とか「タンクに保管するコストが莫大だ」とか、安全性と経済合理性を論拠にした意見が多いように見える。一方、反対する人は、未だに「福島の魚は食べられない」、「東電は信用できない」といった政治的なスタンスから反対を続けているようだ(これは原発の是非や原発政策について考えるときの二項対立と同じ構図かもしれない)。
しかし、安全/危険、あるいは経済的/非経済的といった二元論化した議論だけではなく、本稿ではあえて別の視点、トリチウム水の放出が地域社会にどのような影響を与えるかを提示したうえで、放出の何が問題なのかを考えてみたい。トリチウム水を放出することで何らかの障害を抱えるのは、間違いなく地域社会だからだ。
合意形成の圧倒的な不足
大きな問題の一つが、社会的な合意形成だ。今のところ、政府も東電も福島県の漁業者に向けてしか説明をしていない。そこに問題がある。漁業者が懸念しているのは風評被害や買い叩きである。ならば、一般消費者や流通関係者に説明すべきではないか。「丁寧な説明を」という言葉がよく出てくる。これはもちろん漁業者に対してだけではない。消費者に対する説明責任である。その責任が果たされていないというところに、そもそもの問題があるのだ。
例えば、トリチウムとはどういうものなのか。震災前はどのように放出され、海外ではどのように処理されているのか、新聞やテレビなどのマスメディアを使って広く知らせるべきだろう。そもそもそれがなかったせいで、現在も風評被害が続いている面が多分にある。放出以外にどのような方法があるのか、それぞれどのようなメリットとデメリットがあるのかを消費者に対して丁寧に説明すべきだ。
現在のような閉じた空間で議論を進めていくと、安全で経済的なのに、漁業者が放出に反対していると外側からは見えてしまう。つまり、トリチウム水の放出の決断の責任は漁業者にあるという構図になってしまうということだ。そもそもの公害を引き起こした原因者である政府や東電が国民に対する説明責任を果たさず、大きな責任を漁業者だけに背負わせる。そんなことを続けてきたから信頼関係が築けないのも当然だ。消費者を含め、もっと多様な人たちとトリチウム水の扱いを考えなければならないだろう。
海洋放出が引き起こす地域の破壊
トリチウム水の問題は、地域にどのような影響を与えるのか。まずは賠償の面から考えてみよう。トリチウム水を流すとなると、おそらく多額の風評被害対策費や賠償金が支払われることになるだろう。これが漁業者のやる気を削ぐ。これまでの休業補償のように、獲っても獲らなくても補償されるというような賠償であれば、漁師にとっては水揚げをする理由がなくなる。賠償から抜け出せない、つまり自立を奪われたままの状態に固定化することになる。これでは水揚げ量も増えないし、漁業を目指す若者も増えない。
賠償が続き、魚の水揚げが増えないままだと、当然、福島県産の魚介類の流通量が減っていく。地域のスーパーや鮮魚店だけでなく、温泉旅館やホテルなどの宿泊施設、地域のお土産屋さん、物産ショップなどで、福島県産品が他県産に切り替わったり、水産品が農産品に替わるということになる。棚を取り戻すのがいかに難しいか。私は震災後にいわきのかまぼこメーカーに勤務していたのでよく分かる。福島県産がなくても社会が動いてしまう。その状態がもっとも怖いのである。
福島の沿岸を訪れる観光客にとっても打撃だろう。福島県産を買おうと思っても買えない。福島県に来ているのに福島の魚が食べられない。そんな港町のどこに魅力があるのだろう。つまり、トリチウム水の放出が引き起こす賠償の固定は、福島県の観光の魅力をじわじわと傷つけていくのだ。特に水産業を柱にする浜通り地区は、ただでさえ津波の被害を受け、現在も復興の途上にあり、その多くは、漁業を中心に魅力を再発掘している途上にある。トリチウム水の海洋放出は、それに水を差すことになる。
賠償が続けば、漁業関係者の収入は確保できるかもしれない。しかし、その間に、社会は「福島県産抜き」の状態で成立していく。地域の魅力も売り場も失われていく。すると、また別の何かに依存しなければいけなくなるだろう。ハコモノ建設などに頼っていくのかもしれない。数字で表すことのできるコストだけでなく、地域が生み出してきた有象無象の魅力や文化にまで思い馳せると、海洋放出が本当に経済的か、疑問符をつけざるを得ない。
ここまで読んだ読者は、私の懸念は、トリチウム水の問題ではなく賠償の問題だと思うだろう。そうなのだ。私は、そもそも漁業の賠償に大きな問題があると考えている。そして、現在の賠償システムのままトリチウム水を投棄すると、元々の問題がさらに固定化していく。だから、トリチウム水の問題を扱うのなら、その前に、やはり賠償の話をしなければならないのではないか。この議論を棚上げにしたままだったから、トリチウムの問題がここまでこじれてしまったのではないだろうか。
では、賠償をやめて、試験操業から本操業に移行すれば良いのだろうか。話はそう簡単ではない。賠償がなくなれば、漁師は稼ぎを得るために、これまで以上に魚の「量」を獲らなければならない。数を獲るようになれば、自ずと魚価が下がる。すると、その売上をカバーするために、また量を獲らなければならなくなり、せっかく回復した漁業資源を枯渇させることになる。このまま本操業に移行したところで、震災前の苦しい漁業に戻るだけだということを、現場の漁師もよく理解しているのだ。だから、本操業への移行に二の足を踏んでしまうのだろう。懸念する気持ちは、よく分かる。
問題はどこにあるのか。それは、「賠償がなくても持続できる漁業のビジョンを誰も描けていない」ということにある。どのような理念を持ち、どのようなビジネスモデルで、どのように震災前の売上を達成して、賠償を終わらせるのか。誰がどの責任を負うのか。そのようなビジョンが描けていないのだ。先ほど、水産業は、観光や物産、流通業など地域全体に影響すると書いた。ならば、その新しいビジョンは、漁業者だけではなく食や観光や健康に関わる地域の人たちで考えなければならない。それができているだろうか。
そもそも、現在のような閉じた環境で、限られた人たちだけで話を進めようとすること、そこにも問題がある。もっと多様な人たちが議論に入れば、議論自体が透明化され、合意形成の過程で社会性を帯び、市民にも情報が伝わっていく。社会の合意形成をすっ飛ばして「海洋放出ありき」で進めることには、私も強く反対せざるを得ない。
変わらない現場の問題
もう一つ、別の角度からこのトリチウム水の問題を考える。まずはメディアの問題だ。原発事故以降、福島県に関するデマや風評が無くならないのは、メディアがその責任を放棄しているからではないか、という指摘がある。確かに在京メディアは、テレビも新聞も、福島県の回復ぶりや放射線に関する基礎知識などをほとんど報じてくれていない。ただでさえ報道される機会が少ないのに、たまに取り上げられると、政局やイデオロギーと絡められ、福島の負の部分のみが強調されるようなものが多いのだ。
特にテレビ局は、「東京ローカル局化」が進んでいる。福島の問題は、東京とは別の地域の問題だと捉えられてしまい、科学的なデータやエビデンスが紹介されないのだ。キー局が東京ローカル局化した現在、彼らにとって福島のニュースはよその出来事である。だからほとんど無視されてしまうわけだ。キー局報道の劣化が、福島への誤解を生み出している面があるだろう。
では、メディアは明日からすぐに変われるだろうか。このような状態で、トリチウム水を放出するとしよう。トリチウムとはいかなるものなのか、どの程度影響が出るのかといったところは報じられずに、「地元の反対を押し切って流した」ことがセンセーショナルに報じられていくことになる。風評被害の再燃である。漁業者が反対するのも無理はないだろう。
さらにもう一つ。水産の「流通」の現実を見てみる。あえて極端な言い方をするが、この問題を一言で言うならば「彼らに正しさが通じるか」ということだ。商人が追い求めるのは「理」ではなく「利」のほうである。原発事故後に何が起きたかを思い出してみればいい。福島から遠く離れた八丈島沖で漁獲されたカツオなのに、小名浜に水揚げしたというだけで値段がつかずに買い叩かれるような業界である。
同じ回遊魚であるサンマとて似たようなものだ。サンマは、「水揚げ地」か「漁獲地」か、表示するものを選ぶことができる。例えば、宮城県沖で漁獲し、小名浜港に水揚げすれば、「宮城県沖」か「福島県産」かを選ぶことができるのだが、このようなケースでは、ほとんど福島県産とは表示されない。福島県産を敢えて表記するメリットがないからだ。そもそも三陸を含む宮城県産のほうがブランドイメージが高く、福島県産と書いてしまうと、どうしても原発事故を想起する客がいる。だから現場はそれを懸念して「福島県沖」を表記しないのだ。現実、「福島県産」とは、そのような位置付けである。
震災から7年、そのような状態が今なお続いているような水産流通業界の人たちに「科学的に正しい購買を」と言ったところで大きな改善は望めまい。カツオやサンマの水揚げが激減するなか、相馬や小名浜の漁港の産地優位性は失われていくだろう。昨年、小名浜にある地元大手のサンマ仲買会社が倒産したことは、地元に大きな衝撃を与えている。このような瀕死の状態でトリチウム水が流されれば、地域の水産業がもたないだろう。どうやって、市場に対して「理」ではなく「利」を訴えていくのか。やはり地道なマーケティングや商品開発、販路拡大を続けていくことも必要だろう。
確かに科学的に考えれば、トリチウム水は海洋に流しても健康には影響がない。しかし、ここまで述べてきたように、トリチウム水を流すことで発生する問題は地域全体に及び、それを解決するために支払われるコストも莫大になる。さらなる賠償が生まれ、世の中は福島県の海産物抜きで動いているのに、地域社会は補助金漬けになり、魅力が失われていく。これらはすべて社会的コストとして私たちに跳ね返ってくるのだ。
社会が一歩、成長していくために
このように、トリチウム水の放出は、地域にさまざまな影響を与えていくことになる。であれば、それをどう処理するかを、漁業者だけで考えてはならないし、むしろ、私たちの生活と地続きなところにある問題として捉え直さなければならないはずだ。更田委員長は「海洋放出しかない」という。しかし、海洋放出以外にも選択肢はあるし、そもそもこれまでの議論のプロセスも明らかにされていない。そして、トリチウム水以前に考えなければならないことが、それこそ山ほどある。それらにとりかかる前に、いきなり「海洋放出しかない」というのは暴力そのものだ。だから信用されないのだ。
なぜ漁業者や水産業者が頑に拒むのか。それは、この7年、上に書いてきたような慎重な合意形成を、政府も東電、自治体も、ほとんどやってこなかったからだ。いや、震災前からそうだったのかもしれない。誰も、福島の漁業のことを自分たちの問題として考えてこなかった。何か困ったことがあれば、彼らに賠償を渡せばいいじゃないかと考えてきたのだろう。
メディアも流通業者も同じかもしれない。福島の出来事など東京には関係ない、私たちの地域には関係ない、福島のニュースは数字が取れない、などと考えてこなかったか。流通業者もまた、福島の漁業者は賠償金でカバーすればいい、安く買えればそれでいいなどと考えてこなかっただろうか。結局、あの事故を「自分たちの問題」として考えられなかった。そのしわ寄せが今、漁業者に集約されてしまっていると考えることもできるだろう。
もちろん、その批判は私たち消費者にも向けられる。私たちもまた、福島の漁業の問題を漁業者に押し付けてきた面があるからだ。当事者の一人として、私たちも、地域に目を向けながら、原発事故がもたらす問題を考え、発信していかなければならない。トリチウム水をどうするのかの結論は、そのような対話と合意形成の上に出されるべきだろう。現段階での海洋放出など、社会の分断を広げるだけだ。
こまつ・りけん 1979年、いわき市小名浜生まれ。ローカルアクティビスト(地域活動家)として、地域に根差したさまざまな活動を展開している。『新復興論』(ゲンロン叢書)で第18回大佛次郎論壇賞を受賞。編集・ライターとして関わる「いわきの地域包括ケアigoku」で2019年グッドデザイン金賞受賞。
twitter:@riken_komatsu