ヨガと苦
昨日はとうとう、連続更新なりませんでした。。
書くかどうしようか、、誰かの期待に応えたほうがいいのでは、、、、などと迷うこともなく、書けない日もあるということだけを見つめました。
そう、私はこんな感じで、かなり気まぐれなのです。
やりたいときにやるだけで、やらねばならないと気張らない。
だって、「やりたいときにできないことも」「やらねばならない!と焦ること」も両方とも苦しいでしょ。
私はできるだけ、自分の決めたことで苦しみたくはないのです。
苦しみとは
もちろん、一つのことをやり切るチカラとなる
継続性
遂行性
耐久性
根性
ねばり
そんな力も、社会生活では大切になるシーンはありました。
また、人と仕事をする場合や、チームメートへの評価を考えている時には、こうした力の有無を見つめていることもありましたし、根性ある人のほうが一緒にやってて頼もしいとも感じていました。
しかし、その目で「自分を見つめる]とどうでしょう?
自分の心の中身は、良く見えてしまうでしょう。
表向きには、頑張って、健気に、歯を食いしばって、耐えて、人のためにと多くのエネルギーを素直に注ぐことができていても
その行動の裏に、「もうやだな、しんどいな、ほんとは違うことをしたいのに]なんていう心が見えたりもする。
『やってることと、想い』が不一致してしまう。
もちろん、すべてではないし、やろうと思っていることを全力で遂行することもある。(たぶん、こういうケースのほうが多い)
でも、本音と建て前という言葉があるように、
人は、どうしても、目の前の取り組みに向けて、「本心まで一緒に」できない時があるように思う。
学校の勉強だって、体育の授業だって、文化祭の準備だって、部室の掃除だって、家の大掃除だって、、、、
子供のころから、こうして、やってることとへ素直な心で挑んでいない時間がたくさんあった。
苦しみとは、身体的な不調だけではなく、「行動と、想いの不一致」からも起こるもの。
苦しまない生き方
さて、これは難しい。
人はわざわざ「苦しみ」たいと思うことはないと思う。
苦しみと感じるかどうかも、主観的なもの。
その人生における出来事への意味付けが、その出来事と結果を「苦」とするか「楽」とするか。苦しみは十人十色。
レモンを喜びとともにかじることもあれば
酸っぱさに背筋を凍らせながらかじることもある
その時の自分自身の状況によって、感じ方が違うということ。
レモンにも、酸っぱさに顔をしかめた自分にも、「悪」は無い。
たまたま、今、レモンの酸味と、レモンの酸味を必要としていない自分がであった結果だけです。(よく判らない例えでした。。)
「苦」にも、その原因にも悪は無いのですね。
では、その起こってしまった苦にはどう向き合うべきか。
苦を認める
苦しみを感じた時、自分は何に苦しんでいるのかを、一度見つめてみるということが大切になります。
どうしても、今やっている仕事に苦しみを感じている時、「どうして自分はこんなにもこの仕事を苦しく感じているのか」を自問する時間にしてみたらどうでしょう?
その時間は、自分の本心を知ることができる授業となります。
素直に自分のエネルギーを注げないとき、自分のこだわりや本心を知ることができる。
素直に体を動かしたくない時、自分の身体的な調子を知ることができる。
心からの協力ができない時、その相手へ対する自己内の評価をしることができる。
こころから自分を捧げられないとき、相手への信頼と、自己への執着を知ることができる。
もちろん積極的に苦しんでほしいとは言いませんし、できるなら、心と体が一致して、心地よく目の前の取り組みに従事できるようになってほしいと思います。
しかし、そんな簡単なものではないですよね。人生は。社会は。
ですので、ちょっとした「苦」から学ぶ自己授業を、ぜひ続けてみてほしいと思います。
あ、それもまた「苦」になるかも。。
いやぁ。今日は難しいお題が沸いたもんです。
ご意見あればぜひ。
私の勉強になります。