ヨガと思い出
昨日は、おちつくことについて思うことを綴ってみました。
出し切る、やり切ることが、落ち着きにつながる努力であるというようなことを綴りました。
さて、私はnoteへ綴ることで、思考を整理したり、言葉への丁寧さを高めようとテーマの書き出しから文章の書き終わりまで30分以内で終えるよう自己鍛錬をしています。これがなかなか面白いのです。
今日は何を書こうかと、、今この瞬間に考えていますがまだ出ません。
と、5分ほど経過しました
記憶ってなんだ
ふとよぎる疑問と、ヨガの結びつきについて綴ってみることにします。
私たちは、毎日の出来事とその反応についての膨大な情報に包まれています。その中で、覚えているもの、忘れていくもの、意識的に覚えたこと、無意識に身についたもの、様々な形で記録されていきます。
短期的な記憶や長期にわたる記憶、そして、一時的な記憶。
スーパーに醤油を買いに行こうと、「醤油を買うぞ」という記憶は一時的な記憶。
「我が家の醤油は、昔から●●のメーカーの出汁入りだ」というのは長期記憶。
試験勉強のように、「あの公式はここで使う」「スリランカの首都は●●」など、意識的な記録を「宣言的(陳述的)」記憶。
また、自転車に一度乗れるようになったら、練習せずにいつでも乗れる経験的な記憶が「非宣言的(非陳述的)」記憶。
怖いものを見たときに、身体が固まったり、心臓が痛くなったり、呼吸が浅くなったりした経験を記録してしまうのは、この非宣言的な記憶になります。
覚えようとしたことではなく、人には何気ない体験を体が覚えてしまうという作用があるのです。そして、こうしたものの中で、繰り返し「思い出す」という作用もあります。
記憶は、一度覚えてしまったら随意的に忘れることができません。
脳の中の消しゴムは存在しないのです。
記憶の影響
記憶は、今この瞬間にも影響しています。
目の前に映るものを見渡して、「恐怖」や「嫌悪」を感じますか?
感じないとすれば、それはどうしてでしょう?
もし、感じるとすれば、それはどうしてでしょう?
恐怖や嫌悪という情動は、非宣言的な記憶に影響をうけます。
過去の体験と、その時に感じた感覚や感情が、今目の前の景色に脚色するのです。
私は、開いた缶詰(たとえば桃缶とか、ちょっと大きめの缶)が開いていて、机に置いてあったら「ちょっと怖い」と感じるのです。
それは、小さいころにその缶のフタのところで、指をざっくり切ったことをおもいだしたり、その血が流れた震えを思い出してしまうから。
年齢は覚えていないし、記憶の正確性は曖昧ですが、「今見ているもの」へ「過去の体験」が影響し、身体が竦むのです。
記憶を使う
記憶って、思い出すと「想い出」になりますね。
記憶というと、「倉庫」のような感じですが(あくまでも私の主観)、
思い出は、「アルバム」みたいに感じます(あくまでも主観)。
同じような心の作用であるこの記憶と思い出のうち、
思い出には明るい印象をもったものが、多いのではないでしょうか?
もちろん、苦い経験、辛い思い出などもありますが
人は、生まれてから、何かしらの「楽しい経験」「喜んだ経験」を持っているものです。
忘れているか、倉庫にしまいすぎて場所がわからなくなってしまっているのです。
アルバムをめくるように自分の思い出を見つめてみて下さい。
そして、「喜んだ経験」「人から受けたうれしかった出来事」などを
もう一度、「想起」し再体験してみて下さい。
どんなものでもいいんです
・父の背中に負ぶってもらいうたた寝したこと
・縁側に寝そべり、太陽の光をポカポカと感じていたこと
・草の上にナメクジがたどった道筋を眺めていたこと
・目の前で雑種の犬がつまづいたこと
そんな、何気なく、些細なことに、「微笑」し、「温かく感じた」こと。
思い出の影響
記憶は今、この瞬間の自分の体へ影響を与えるもの。
こうしたアルバム(思い出)への意識と、情景への没頭は、その瞬間体も再体験します。
良い感覚の思い出には、身体も同じく反応するのです。
もし、今「いいことなんて何もない。」「私の人生は辛いものだけでできている」「自分の人生の意味なんてない」
なんていう、寂しい感情に溢れたら、
いちど、思い出をめくってみて下さい。
実際に、小さいころの写真を眺めるのもいいと思います。
あるいは、幼少のころに過ごした街を歩いてもいいかもしれません。
記憶は今へ影響する。
その作用を、活用下さい。
良い思い出と心の中で出会いますように。
よし、30分。