ヨガと姿勢
昨日はヨガと意識について、ぼんやりしたことを綴りました。
文章がちょっと長すぎる上にまとまりがないなと感じているので、今日は短く端的に。
を目指しスタート。
良い姿勢、悪い姿勢
姿勢正すという言葉をよく使っています。
もちろん精神的なことも含まれている場合も多いのですが、今回は身体的な姿勢について書いています。
ヨガを実践している時の「姿勢の正しさ」とはなんでしょう?
アサナには一つ一つに目的や、刺激する集中やラインというものの設定があります。
パスチモッターナアサナは背面(カカトから後頭部)の伸張と、腹部の圧迫を目的とし、疲労の軽減や腹部(内臓)のうっ血を除くという効果があります。
姿勢としてこのアサナをみると、両足を前に伸ばし(長座)し、股関節を屈曲させ背骨は伸張あるいはやや屈曲させ、腹部と大腿部を圧迫します。
しかし、これが難しいと感じる人はたくさんいますね。
私も、毎日前屈しますが、毎日感覚が違います。
痛みのある時も、呼吸の浅さを感じる日も、逆に深いリラックスできている日もまちまちです。
形を正しく保とうとすればするほど、「苦しい」と感じるのです。
さて、正しさを求めすぎ、苦しみを迎え入れる(耐える)のがヨガの姿勢でしょうか?
しかし逆に、苦しみを感じたら、苦しみを除く工夫(軽減)をすることがヨガなのでしょうか?
インドでヨガの練習をしていた時、私は良く、先生に背中やお尻を足でけられたり押されたりしていました。苦しいし、痛い。
また、その昔、沖正弘先生はヨガの指導中、竹刀をもっておりました。(どう使うかは想像に任せますが)それはそれは厳しいものでした。
そして、姿勢。
体操の姿勢に良い、悪いがあると思いますか?
何か良くて、何が悪いのでしょうか?
身体は歴史
「自分の今の体と姿勢は、これまで自分の命を守ってきた歴史である」
過去からあらゆる出来事に対峙し、命が今この瞬間生きているということは、その身体や行動で自分の命を懸命に繋いでこれたということ。
その結果、背が曲がったり、猫背になったり、骨盤が歪んだり、肩が下がったり、筋力の左右の強弱が生まれたり、アゴが左右で発達が違ったりしているのです。
ですので、今、その身体には感謝しかないのです。
ありがたい形です。
「まっすぐでいる」ことが正しいことではないのです。
生きていくこと、生きられること、生きる力があることとその姿勢がまず自分の生命にとっての正しさとなります。
そして、姿勢
ヨガの体操の中では、まず自分の姿勢(体の状態)は自分に必要な刺激を教えてくれる教材という見方をします。
命の働きは、「生きるためのエネルギーと刺激」を欲します。
ですので、そのエネルギー(例えば呼吸や血流の状態)がスムーズに流れることを求めます。必ようなところに必要な力が入ること、そしてそれをコントロールできることを望んでいます。
ですので、ヨガの体操では、
自分の必要な
「弱っているところを強くし」
「緊張しすぎているところを休め」
「休み過ぎているところへ活性させる」
ように取り組むことが望ましいのです。
ですので、参考書としてのヨガアサナの姿勢の正しさではなく、できるだけ自分自身へ必要な刺激の発見材料として、あらゆる姿勢を試していくように使ってみましょう。
前屈で理解できる自分、後屈で理解できる自分、側屈、片足立ちなど、あらゆる動作と姿勢が自分を知る教材であり、必要な刺激を提供していく道具となります。
そのバロメーターとしては「冷静」に「喜んでいる」状態と保つことです。
痛みを伴いながらも、冷静に楽しめるのであれば続ければよいのです。
痛みに、冷静さを失い、感情が波立ち、イライラするのであればいったんやめてしまえばいいのです。
全てのアサナが自分にとって必要であると思うことも、無理な理解です。
自分に必要な刺激を探すという、自己探求へ向けた時間にしてみましょう。
そして、姿勢の正しさ。
これも、ひとそれぞれ正しさは異なりますね。
人生が違うわけですから。
守ってきているものが違うわけですから。
ですので、先ず、今の姿勢に「ありがとう」と言ってみて下さいね。
とりとめなく。