ヨガとやさしさ
昨日は、「おちつき」について思うことを綴ってみました。
おちつきたいと願い、いろいろなリラクゼーション法を試してみますが、そう簡単ではありません。本当の落ち着きは、やってくるもの。
目の前のことへしっかりと集中しチカラを出し切った後に、開かれる扉のようなもの。。ご褒美。
だから、自分を優しく、いたわるだけではなかなかやってこないものかもしれません。
ところで、「やさしさ」という心は、自分に向ける必要のあるものでしょうか?
自分以外のものへ向ける感情としては大切なのは理解できます。
しかし、自分に向けて「やさしさ」を表現するとき、時として「あきらめ」「怠け心の増長」「無視」になっていくこともあるのではないでしょうか?
[学校に行きたくない]と言いている自分に、
【うん、そうだね、今日は休もうか、あたまも痛いような気がするし、、】
と、寄り添うことが、「やさしさ」になっているでしょうか?
[今日はよーく頑張ったから、いつもよりたくさん唐揚げを食べたい]とワクワクしている自分に、
【うんうん、そうだね、今日一日くらいだったら大丈夫だと思うよ、食べちゃえ飲んじゃえ】と、理性のブレーキを外すような応援をすることが「やさしさ」でしょうか?
やさしさは本当のことを守ること
人の本心は「愛」からできている、
この世界は「愛」から生まれている、
世界に共通して流れているのは「愛」というエネルギーだ。
こんな表現を聞いたことはありませんか?
ヨガを学んでいると、「愛」というものが良く出てきます。
愛に含まれる感情は様々あると思います。
やさしさも、この愛の中に含まれる一つであり、同義語と捉えてもよいかもしれません。愛のカタチを変えた呼び方が、やさしさと言えるかもしれません。
そして、このやさしさ。
愛もそうなのですが、この愛ややさしさという心を向ける対象を
「弱くしてしまうもの」「困らせるもの」「悲しませるもの」になってしまうものでしょうか?
優しさを向けることで、
その対象の本心ややりたいことを妨げてしまうことはないでしょうか?
そのやさしさは、その対象を応援できているでしょうか?
そのやさしさは、その対象の本当の心に寄り添えているでしょうか?
そのやさしさは、その対象の生きる力を応援できているでしょうか?
そのやさしさは、その対象の執着心に繋がっていないでしょうか?
「やさしさ」は、大切なものを守り応援する心になっているでしょうか?
大切なものへの見極め
やさしさを向ける相手を、ただ慰め、弱らせてしまうことがあります。
だからといって、本当に疲れ切っているものに対して、叱咤激励を続けてしまうことも、「やさしさ」にはならないともおもいます。
大切なことは
「見極め」です。
いま、この対象へ向けるやさしさは、どのような態度だろうか。
そうした「見極めるチカラ」を持たねば、本当のやさしさを表現することはできないと思います。
やさしさは、あらゆる形になります。
そう、神様と一緒です。
その人に、一番伝わる形になることができるのです。
言葉にも、態度にも、文字にも、表情にも、部屋のインテリアにもありとあらゆる形に「やさしさ」はなることができます。
大切なのは、やさしさをむける対象が一番必要としているチカラを「応援」することです。
よく、見つめ、よく考え、良く試案し、よく理解しようと努め、相手の要求を知り、本音を聞き、やさしさの形を探しましょう。
ですから、時として
『鬼のような形相』がやさしさになっていくことにもなるのです。