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「あなたは何者ですか?」という質問の答え方。
「あなたは何者ですか?」
なんて、つっけんどんな質問をされたことはありませんが(笑)
それでも自分という人間を
明確な言葉で表すことができないのが、ずっと悩みでした。
だから自分のことを説明するときには
だれにとっても分かりやすく
そして自分自身にとっても分かりやすい「肩書」みたいなものにばかり頼っていたように思います。
仕事=わたし?
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仕事に就いてからは
「小学校の教員をしている、○○です。」
結婚してからは
「△△に嫁いできた、○○です。」
子どもが生まれてからは
「~~の母親の、○○です。」
なんて。
所属や役割というのはとても便利なもので
私自身がどういう人間であるかにかかわらず
私のことをなんとなく説明してくれるので
「自分がいったいどんな人間か」なんてことは、私自身深く考えなくてもよい状況を生み出してくれていました。
しかし。
2023年3月末をもって、私の最大の肩書であった「教員」というものを手放すことになりました。
しかも次の就職など決まっていないまま。
つまりフリーランス。
自由の身となってしまったのです。
ここからは誰もが納得できる、フリーパスのような便利な肩書は使えない。
正真正銘、何者でもない
ありのままの「私」として勝負していくしかなくなってしまったのです。
自由という恐怖
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/107885725/picture_pc_84666dc3a1b4b64f3eb15d907188b7ea.png?width=1200)
自分で選んだ道ではあったものの
初めて手にした自由に、恐れおののきました。
どこにも所属していないということは
自由であるという反面、やはり心もとなさがつきまとうもので。
今まで縛りつけられながらも
私自身が大いにしがみついていた「教員」という肩書は、
いつしか私のアイデンティティになってしまっていたのでした。
「教員」というアイデンティティを失った私は
いったい何者なのか?
心が不安定な中、自問自答の末にたどりついたのは
「私は私でしかない」という
哲学的でもなんでもない、ただの真実でした。
「教員」である以上、「教員」であり続けなければいけなかった過去。
自分中の「教員っぽくない部分」を否定し、押し込めて
「教員」という肩書を守るために「私」ではなく「教員」であろうとしていた日々。
それによって受けていたたくさんの恩恵を手放した今、
私ができるのは「ただの私」であり続けること。
自由の中で生きていくには、それしかやりようがないという真実だったのです。
「私」にしかないものとは?
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じゃあ「私って、いったいなんなの?」
って、結局、最初と同じ謎にぶち当たるんですけど…(笑)
「教員」という肩書を手放しても
「女性」であること
「母」であること
「嫁」であること
は変わりません。
だからといって、私という人間を説明するときに、これらの役割だけというのは
あまりにも漠然としていて違う気がする。
それじゃあ「私」はいったい何者なのか。
「私」と「他者」は何が違うのか。
自分という人間にしかないもの。
技術でも、役割でも、特性でもない、私だけのもの。
結局行きついたのは
ありのままの私の「心」だったのです。
自分の「心」が武器になる
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/107885797/picture_pc_45992d955b8d26fd617d30c2fa42a496.png?width=1200)
私と他者が唯一、違うもの。
それは「私」という人間の
ありのままの心が求めること。
何を楽しみ
何をつまらないと感じるのか
何が好きで
何が嫌いなのか
何に喜び
何に怒りを感じるのか
それを突きつめていった先に
誰とも違う「私」という人間のカタチが
見えてくるんじゃないのかと。
そう思えるようになってから
自分の心の解像度を上げるため
より自分の気持ちに忠実になってきたように思います。
ある意味では非常にワガママなのかもしれないけど
何かに遠慮して、自分の心に背いた方向ばかりを向いていたら
「私」という人間の輪郭はあやふやになっていくばかり。
それではいつまで経っても「私」で勝負なんてできない。
だったら、私しか持ち得ない「心」を研ぎ澄ませて武器にするしかない。
そんな割り切り方ができるようになった気がします。
まぁだいたい
全てが自由なのに、その自由の中で
自分が嫌だと感じることを選ぶってなんか変ですよね(笑)
羅針盤は、心のワクワク。
やってみたい!おもしろそう!
の集合体が、私という人間なのですから。
その結果…
ライター、モデル、ブロガー、カウンセラー、フォトグラファー、パーソナルスタイリスト、ソウルフル数秘術®プラクティショナーなどなど…
もう、とんでもなくとっ散らかった経歴になってしまったのですが…(笑)
仕方ない。
それが他の誰とも違う私自身なのです。
そんな私が世の中に貢献できることはなんなのか。
それを一言でまとめるのが
次の作業になるわけなのですが。
長くなってしまったので、それは次回。
次回は
「自分という人間にキャッチコピーをつける」
についてお伝えしていこうと思います。
乞うご期待!
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最後までお読みいただきありがとうございます。
誰よりも【心】について思いをよせるmariが
複雑怪奇で形のない【心】について
正面から、横から、ななめから
ためつすがめつしながら考察していくページです。
私が【心】と向き合う日々が
読者の皆さまにそっと寄りそい
ときにははたと立ち止まって考える
そんなきっかけになりますように。
皆さまからの
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mari【言葉をつむぐ人】
・36歳、3児の母
・13年間の教員生活ののち、自分らしい人生を求めてフリーランスに転向
・現在はライター、モデル、ソウルフル数秘術®プラクティショナーとして多方面に活躍
・幼少期から生きづらさを感じていたことをきっかけに、心について学び、深く考察する日々を重ねる
・好きな哲学者は老子、好きな言葉は「無為自然」
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