(浅井茂利著作集)TPP協定により、中核的労働基準遵守に法的拘束力
株式会社労働開発研究会『労働と経済』
NO.1625(2018年4月25日)掲載
金属労協政策企画局主査 浅井茂利
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本誌2016年4月号において、TPP協定により、日本はILO基本8条約の中で未批准となっている105号、111号を批准できるような国内法整備を行う必要がある、と指摘しました。その後、アメリカの離脱により、いったんTPPは発効の目途が立たない状況となりましたが、2018年3月には、アメリカを除く11カ国がTPP11協定(包括的及び先進的な環太平洋パートナーシップ協定)に署名することとなり、TPPは息を吹き返しました。TPP11協定の交渉過程では、新たな動きも見られましたので、この問題を改めて取り上げてみようと思います。
日本はILO基本8条約中2条約が末批准
まずこの間題をかいつまんで振り返ってみようと思います。
ILO(国際労働機関)では、
*結社の自由及び団体交渉権の効果的な承認
*あらゆる形態の強制労働の禁止
*児童労働の実効的な廃止
*雇用及び職業における差別の排除
の4項目を、最も重要な原則として、「中核的労働基準」と呼んでおり、8つの基本条約(29号、87号、98号、100号、105号、111号、138号、182号)において規定されています。
残念ながら日本は、国内法の不備により、基本8条約のうち、105号(強制労働の廃止に関する条約)、111号(雇用及び職業についての差別待遇に関する条約)の2条約を批准できていません。ILO加盟187カ国中、105号も111号も175カ国が批准していますので、先進国として、というより普通の国として、大変恥ずかしい状況と言わざるをえません。
厚生労働省がILO活動推進議員連盟に示した資料によれば、国内法のうち105号については81項目、111号については25項目の規定が条約に抵触する可能性があり、そのために批准ができない状態だということです。
条約というのは、批准をしなければ国内で効力が発生しませんが、中核的労働基準に関しては、1998年の「ILO宣言」によって、基本8条約を「批准していない場合においても、まさにこの機関の加盟国であるという事実そのものにより、誠意をもって、憲章に従って」、「尊重し、促進し、かつ実現する義務を負う」ことになっています。
このILO宣言は「政治的文書」なので、法的拘束力はない、というのが日本政府の考え方のようですが、2018年3月に日本が他の10カ国とともに署名したTPP11協定では、4つの中核的労働基準が「労働章」において、次のように盛り込まれています。
第19.3条 労働者の権利
1 各締約国は、自国の法律及び規則及び当該法律及び規則に基づく慣行において、ILO宣言に述べられている次の権利を採用し、及び維持する(注1、注2)。
注1 この条に規定する義務は、ILOに関係する限りにおいては、ILO宣言にのみ関連するものとする。
注2 締約国は、この1又は2の規定に基づく義務の違反を確定するためには、他の締約国が法律、規則又は慣行を採用せず、又は維持しなかったことが締約国間の貿易又は投資に影響を及ぼす態様であったことを示さなければならない。
(a) 結社の自由及び団体交渉権の実効的な承認
(b) あらゆる形態の強制労働の撤廃
(c) 児童労働の実効的な廃止及びこの協定の適用上、最悪の形態の児童労働の禁止
(d) 雇用及び職業に関する差別の撤廃
1998年のILO宣言それ自体に法的拘束力がないとしても、TPP11協定が発効した場合、締約国については、「ILO宣言に述べられている次の権利を採用し、及び維持する」ことについて、法的拘束力が発生すると考えて当然であり、わが国としても、これに対応する国内法整備を行わなくてはなりません。
しかしながら、日本政府の見解は、「労働章において、各締約国が保障すべきこととされている労働者の権利に関係する国内法令を既に有していることから、追加的な法的措置が必要となるものはない」というもので、国内法整備の動きは見られません。
中核的労働基準を守るのか、基本8条約を守るのか
論点のひとつとしては、
*TPP11協定は、ILO宣言に記載されている権利を守ることを求めているが、中核的労働基準を規定する基本8条約の具体的な中身をすべて守らなくてはいけないということではない。
*TPP協定に対応するため、いかなる法令を採用・維持するかは、一義的には各締約国に委ねられている。
*わが国は基本8条約のすべてを満たす法整備はできていないが、中核的労働基準に関係する国内法令をすでに有していることから、TPP11協定のために追加的な法的措置が必要となるものではない。
という主張です。
たしかに、TPP11協定第19.3条では、「ILO宣言」という文言と4つの中核的労働基準に関する具体的な記載はありますが、基本8条約に関しては触れていません。また、19.3条の「注1」では、「ILO宣言にのみ関連する」との記載がありますので、中核的労働基準と基本8条約を切り離し、そうした強弁をすることは、一見、可能なようにも思われます。
しかしながら、基本8条約が完全には守られていない状況で、何を基準としてILO宣言を守っていると判断できるのか、大変不思議です。ILO宣言そのものを見ると、中核的労働基準は、「この機関の内部及び外部において基本的なものとして認められた条約において、特定の権利及び義務の形式で表現され、発展してきている」と記載されていますので、「基本的なものとして認められた」8条約に記載されている内容こそ中核的労働基準そのものであり、ILO宣言に記載されている4つの中核的労働基準を守るということは、基本8条約を守ることとイコールでなくてはならず、中核的労働基準と基本8条約を切り離すことが不可能なことは明白です。
また、仮に中核的労働基準=基本8条約ではないと解釈してみたところで、たとえば差別の撤廃については、性別による差別禁止以外は法的な措置がなされておらず、とりわけ採用における思想・信条の自由が法的に確立されていないという問題がありますが、こうした問題は、差別撤廃のまさに核心的部分ですから、核心的部分の法整備に不備があるのに、中核的労働基準を満たしている、と言うことは不可能です。
国として指導・啓発を行っていれば、法整備は必要ないのか
次に、TPP11協定では、「法律及び規則及び当該法律及び規則に基づく慣行」で対応すればよく、たとえば採用における差別の撤廃についても、国として公正な採用選考のための指導・啓発を行っており、TPP11協定の求める義務を履行している、という主張があります。
しかしながら、あくまで「当該法律及び規則に基づく慣行」ですから、国が指導・啓発を行っているとしても、「法律及び規則に基づく」ものでなくてはなりません。そのような「法律及び規則」が存在するのであれば、そもそも111号を満たしていると言えるのではないかと思います。
中核的労働基準違反は、TPP11協定で紛争になり得る
もうひとつの論点は、TPP11協定に基づく義務の違反を確定するためには、「法律、規則又は慣行を採用せず、又は維持しなかったことが締約国間の貿易又は投資に影響を及ぼす態様であったことを示さなければならない」とされていることから、法改正をしないことで、TPP11協定の履行に支障があるわけではない、という主張です。中核的労働基準違反は、「締約国間の貿易又は投資に影響を及ぼす態様」ではないので、他の締約国から申し立てを受けて紛争となる心配がない、ということだと思います。
これに対しては、まずひとつは、「義務の違反を確定する」と「義務の違反」とは明確に異なるということです。従って、申し立てをされる心配がなく、「義務の違反」が確定しないから、「義務の違反」の状態であってもよい、ということにはならないと思います。このロジックは、つかまらなければ法律を犯してよい、と言っているのとどこが違うのか、ということになってしまいます。
次に、中核的労働基準違反が、「締約国間の貿易又は投資に影響を及ぼす」可能性がないとは言い切れない、ということがあります。
たとえば、公務員の争議行為を指導した者に対する懲役刑が105号との関係で問題になるわけですが、これについては、外国企業が、日本で公務員が行っている場合もあるような事業に参入しようとする場合、その直接投資に影響を与えるかもしれません。
思想・信条による差別についても、たとえ国による指導・啓発が行われていたとしても、罰則規定もない以上、実際に事例が発生すれば、ソーシャル・ダンピングの要因となりかねない問題に対して、十分な措置をとっていないとの批判を招く可能性があります。
実際、TPP11協定の交渉において、ベトナム政府は、ベトナムに関し、「労働章に関する紛争処理(制裁措置部分)」について、凍結を要求しました。ベトナムの労働法は中国の労働法と似ているので、中核的労働基準への対応が難しい部分があるためだと思われます。この問題は結局、「発効後の取り扱いについて各国でサイドレターを取り交わす」ことで決着となりましたが、このような要求が出され、かつ一定の特別扱いがなされることになったのも、中核的労働基準違反が締約国間の紛争要因となり得ることの証左だと思います。
2019年ILO創立100周年までに2条約の批准を
TPP11協定は、締約国に対し、ILO基本8条約の批准を求めているわけではありません。しかしながら、少なくとも、批准できる状態に法整備しておく必要があるわけですから、そうした法整備を急ぎ、2条約の批准に踏み切るべきだと思います。ILO加盟187カ国中、175カ国が批准している中で、また、ビジネスと人権、SDGs(持続可能な開発のための2030アジェンダ)への対応に迫られている中で、日本は人権問題を軽視する国との認識が定着すれば、ILOの中で影響力を発揮できなくなるだけでなく、外交全般で、わが国の国益を著しく損なうことになります。2019年にはILO創立100周年を迎えますが、それまでには何としても批准をしておくことが不可欠です。