(浅井茂利著作集)論文博士の拡大を図るべき
株式会社労働開発研究会『労働と経済』
NO.1649(2020年4月25日)掲載
金属労協政策企画局主査 浅井茂利
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わが国の自然科学部門のノーベル賞受賞者は、これまで24名に達しています。第1回目の生理学・医学賞の最終候補者だった北里柴三郎博士をはじめとして、もっと多くの方が授与されてもよかったのではないかという思いはありますが、いずれにしても21世紀に入ってからでは米国に次いで2位ということで、大変すばらしいことだと思います。
しかしながら将来的には、自然科学分野での受賞者の輩出は難しくなっていくのではないか、という悲観的な見方が少なくありません。その理由としては、「失われた20年」を通じて、わが国における研究開発費が削減されてきたということがよく言われています。しかしながら研究開発費総額の対GDP比率を見ると、2008年くらいまで上昇傾向が続いていたのが、その後はほぼ横ばいとなっています。国際比較をしても、イスラエルや韓国よりは低いものの、ドイツ、米国、フランス、中国、英国などよりは高くなっています。問題は「金目」のことではないかもしれません。
一方、わが国では、1年間の博士号取得者数が2006年度をピークとして減少傾向に転じており、人口100万人あたりの博士号取得者数も、2006年度に140人だったのが、2016年度には118人と激減しています。
加えて、いわゆるポスドク問題がクローズアップされています。博士号取得者の減少に加え、取得しても十分に活躍できていない者が少なくないという状況は、由々しき事態と言わざるを得ません。
ノーベル賞受賞者予備軍とも言える博士号取得者のこのような状況は、研究開発費以上に深刻な問題と言えます。
博士号取得者の減少
わが国における1年間の博士号取得者数は、2006年度をピークとして減少傾向に転じています。2006年度には17,860人でしたが、10年後の2016年度には15,040人と、実に15.8%も減少しています。とりわけ工学博士は4,177人だったのが3,243人へと22.4%も減少しており、「ものづくり立国」たる日本の将来が、深く憂慮されるところです。
人口100万人あたりの博士号取得者数を見ても、2006年度に140人だったのが、2016年度には118人に減少しています。主要先進国および中国、韓国と比較すると、英国が360人、ドイツが356人、韓国が278人(2017年度)、米国が258人(2015年度)、フランスが170人となっており、日本は中国(39人)を除いて最低となっています。また2006年度から2016年度の10年間で減少したのは、これらの国々の中では日本だけで、米国、中国、韓国はいずれも1.5倍程度に拡大しています。
論文の減少
博士号取得者の減少とともに、論文数も減少しています。2005~2007年平均と2015~2017年平均の論文数を比較してみると、日本は2005~2007年平均では67,026件だったのが、2015~2017年平均では63,725件へ4.9%減少しています。この間、米国は18.1%増、ドイツは20.8%増、英国は15.0%増、中国は4.7倍ですから、日本の落ち込みは際立っています。
とりわけ、他の論文に引用された数(被引用数)が上位10%の論文はマイナス12.8%、上位1%の論文もマイナス7.6%と、論文全体の減少よりもさらに大幅な減少率となっています。国際比較すると、上位10%の論文は、米国10.3%増、ドイツ29.8%増、英国28.7%増、中国6.2倍、上位1%の論文は米国11.1%増、ドイツ35.8%増、英国34.9%増、中国7.7倍となっていますので、日本の不振は深刻と言わざるを得ません。
論文博士の問題
博士号には、大学院博士課程を修了した「課程博士」と、企業などで研究に従事しながら、大学院の行う博士論文の審査に合格し、博士課程修了者と同等以上の学力を有することが確認された「論文博士」とがあります。博士号取得者の減少は、とりわけ論文博士で著しい状況にあります。
論文博士は、2006年度には3,985人でしたが、2016年度には1,918人と半減しています。この間、課程博士は13,875人だったのが13,122人ですから、博士号取得者の減少率15.8%の内訳は、論文博士が11.6%、課程博士が4.2%ということになります。
論文博士の減少は、2005年の中央教育審議会答申「新時代の大学院教育」において、「現行のいわゆる『論文博士』については、企業、公的研究機関の研究所等での研究成果を基に博士の学位を取得したいと希望する者もいまだ多いことなども踏まえつつ、学位に関する国際的な考え方や課程制大学院制度の趣旨などを念頭にその在り方を検討し、それら学位の取得を希望する者が大学院における研究指導の機会を得られやすくなるような仕組みを検討していくことが適当である」とされていることが背景にある、と指摘されています。
もっともワーキング・グループ段階の報告書を見ると、「日本における論文博士の制度は独自のもの」であり、「学位の国際的通用性の観点から」「廃止の方向で検討することが必要である」というようなことも書かれているので、それに比べれば、最終答申は穏当な結論に落ち着いたということは言えます。しかしながらいずれにしても、論文博士は時代遅れ、格が低い、将来的にはなくなるもの、という印象を一般に与えたことは否定できないと思います。
前述のとおり、論文博士は日本独自のもの、という指摘もありますが、実際にはドイツにおいても、最近設けられた体系的な課程を経て博士号を取得するルートとは別に、総合大学あるいは学位授与権のある高等教育機関に学位請求論文を提出し、口頭試問に合格した者に授与されるルートがあり、企業や研究機関で研究を行いながら博士号を取得しようとする者に活用されています。
ドイツでも博士号の国際的通用性に関する議論はあるようなので、論文博士廃止論にまったく根拠がないとは言いませんが、こうした政策は、日本の研究開発力の強化という観点よりは、結局、学生を呼び込みたい大学、文部科学省の都合なのではないか、と勘繰ってしまいます。
ポスドクの問題
博士号を取得した後などに不安定な任期制の研究職に就いているポスドク(博士研究員)の多さがクローズアップされています(ただし、博士号取得者数が減少していますからポスドクも減少しており、2008年度に17,945人だったのが、2015年度には15,910人となっています)。
論文博士ほどではないにしても、課程博士の取得者、そしてその前提となる大学院博士課程への入学者も減少していますので、ポスドクの存在がクローズアップされていることにより、若者の博士課程進学への意欲が削がれている可能性があります。ポスドク問題は、もともと大学教員や研究者のポストが増えないのに、90年代以降の「大学院重点化」をはじめ大学院の質的・量的充実を図る政策が進められてきたことに原因があるわけですが、そうした政策が、論文博士取得者を減らしているだけでなく、課程博士取得者、博士課程入学者をも減少させているとすれば、まさに目もあてられない結果ということになります。
ちなみに論文博士であれば、すでに常勤の職についている研究者が博士号を取得するのが通常ですから、ポスドクの問題は生じないということになりますし、そもそもポスドクの原因であるミスマッチという問題も、発生する余地がないわけです。
論文博士の業績
独立行政法人経済産業研究所では、「企業内研究者のライフサイクル発明生産性」の分析を行っていますが、そのノンテクニカルサマリーでは、
*課程博士と論文博士号取得者とを比較した場合、課程博士の出身者の発明生産性は年間で35%程度、ライフサイクル全体では38%程度高いという結果が示された。ただし、この差は統計的に有意ではなく、論文博士と課程博士では同程度の生産性を持つといえる。課程博士の出身者は入社直後から高い生産性を示す一方、論文博士号取得者は入社後に高い生産性の上昇が見られる。
*論文博士の取得者は、修士号取得者と比較して有意に50%程度発明活動からの退出率が低下し、発明活動に長期に従事する傾向がある。
*課程博士出身者は入社直後から発明生産性が高く、また継続して高い生産性を維持することを示しており、潜在的な企業の研究能力を高めるためには、より積極的にこれら人材を活用すべきであることを示唆している。
*また、論文博士号取得者の発明生産性も同様に高く、今回の分析からは改めて彼らの企業への貢献が示された。この事を踏まえ、論文博士授与制度は、(1)企業内研究者に対し、研究の生産性を高める十分な研究基礎力を養わせるというインセンティブとしての役割と、(2)経営側から見て優秀な研究者を識別する一種のシグナリング効果を持つ、という2つの側面を有しており、制度の有効性が改めて示されたと考えられる。
と指摘しています。
博士課程出身でないノーベル賞受賞者が増えている
わが国の自然科学部門のノーベル賞受賞者は、1949年に湯川秀樹博士が物理学賞を授与されて以来、これまで24名に達していますが、その3分の1にあたる8名は、博士課程の出身ではありません。8名の最終学歴を見ると、野依良治氏、中村修二氏、大村智氏、吉野彰氏が修士課程、江崎玲於奈氏、田中耕一氏、赤崎勇氏が学部卒、下村脩氏が旧制薬学専門学校卒となっています。とくに2014年以降に受賞した8名では、半分の4名が博士課程出身ではないことが注目されます。こうした傾向は、ノーベル賞が実学分野の研究にも授与されるようになってきていることによるものと言われていますが、いずれにしても、博士課程を経ていない研究者の堂々たる実績を示していることには違いありません。
論文博士の減少は、将来のノーベル賞受賞者の減少につながるだけでなく、わが国における研究開発そのものの衰退に直結する可能性があります。もう一度その仕組みを再評価するとともに、積極的な拡大に努めていくべきだと思います。
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