企業には支払い能力がある6つのエビデンス
2025年1月29日
一般社団法人成果配分調査会代表理事 浅井茂利
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「賃上げには生産性向上が必要」と言われます。たしかに、もし仮に、現状で従業員への配分が適正であるならば、それ以上のベースアップを行うためには生産性向上が必要です。
しかしながら、現状での配分が適正でないならば、それを是正することによって、ベースアップの原資とすることが可能なはずです。労使ともに「企業には支払い能力がない」という固定観念があるように思われますが、そうした思い込みを払拭することが、適正な配分、適切な賃上げを行っていくために不可欠です。
全体として、企業には支払い能力がある6つのエビデンス
「支払い能力」という言葉自体、具体的な定義のないあいまいな言葉ですが、長期にわたる不況の間、「支払い能力=ないもの」という固定観念が形成されてきました。しかしながら、わが国の労働分配率や、主要ステークホルダーへの配分の状況、企業の売上高人件費比率といった指標を見れば、現状では、全体として、支払い能力は十分にあると判断できるのではないでしょうか。
①「実質生産性の向上に見合った実質賃金の引き上げ」が行われてこなかったため、その乖離はきわめて大きなものとなっており、その結果、長期にわたって労働分配率が低下してきたこと。
②財務省「法人企業統計」で見ると、売上高経常利益率が高度成長期以来の高水準となっていること。
③同じく「法人企業統計」で見ると、主要ステークホルダーに対する成果配分において、従業員に対する配分の比率が低下し続けていること。
④わが国の賃金水準が主要先進国の中で最低、先進国の中でも低位となっていること。
⑤わが国の労働分配率が主要先進国の中で最低となっていること。
⑥わが国企業の売上高人件費比率が主な先進国中で最低となっていること。
こうした状況からすれば、日本企業に支払い能力がないというよりは、単にベアゼロ、低賃金に安住した経営を行ってきたということにすぎないようです。経営側からは、「いつまでこのような賃上げが続くんだ」などという声も聞かれるようですが、継続的な物価上昇の下で、物価上昇を上回る継続的なベースアップを前提とした経営に転換していくことが必要となっています。
①長期にわたる労働分配率の低下
1990年代後半以降、わが国では「実質生産性の向上に見合った実質賃金の引き上げ」が行われておらず、その乖離はきわめて大きなものとなっています。2012年末以降の景気回復期で見れば、2014年からベースアップの取り組みが再開され、「雇用者の労働時間あたり実質雇用者報酬」の上昇が「就業者の労働時間あたり実質GDP」の上昇に追いつく局面も見られましたが、2020年代に入って、再び人件費が低下するところとなっています。(図表1・・・前号でも掲載)
労働分配率には、GDP統計を使ったマクロ経済ベースのものと、財務省「法人企業統計」など企業会計のデータを使ったミクロ経済ベースのものとがありますが、GDPベースの労働分配率の代表的なものが、
雇用者の労働時間あたり名目雇用者報酬÷就業者の労働時間あたり名目GDP
というものです。
わが国のGDPベースの労働分配率は、1970年代後半以降、2010年代半ばに至るまで、長期にわたって低下傾向を続けてきました。とくに1990年代後半以降は、
*デフレが長期にわたったこと。
*米ソ冷戦が終結して経済のグローバル化が進み、賃金水準の低い東・東南アジア諸国との競争が激化したこと。
*デフレ下においても企業は増益を確保する必要があり、また株主資本主義の伸張に伴って株主に対する配当を拡大させなくてはならなかったことなどから、人件費の削減・変動費化への圧力が高まったこと。
などによって、
*ベアゼロが続き、「実質生産性の向上に見合った実質賃金の引き上げ」が行われなかったこと。
*同一価値労働同一賃金が確保されないまま、正社員の職が非正規雇用に置き換えられたこと。
*正社員については、成果主義賃金制度が導入され、中高年層ではゼロ定昇・マイナス定昇とされる者が多く、結果的に中高年層の賃金水準が低下したこと。
などが大きく影響しているものと思われます。
2014年からのベースアップによって、労働分配率は2010年代末には2000年代初頭の水準まで回復していましたが、2020年代に入って再び低下傾向となっています。(図表2・・・前号でも掲載)
②売上高経常利益率は高度成長期以来の高水準
財務省「法人企業統計」によって、売上高経常利益率の推移を資本金規模別で見ると、
*大手企業では、第1次石油危機前、1970年代前半の高度成長期を大きく上回る水準に達している。
*中小企業でも、高度成長期並みの水準に改善している。
ということが言えます。(図表3)
こうした背景には、
①経営環境が改善したこと。
だけでなく、
②いわゆる株主資本主義の伸張によって利益率重視経営が行われてきたこと。
があるものと思われます。この点については、前々号「賃上げは、定昇、ベースアップ、格差是正に分けて考える」をご覧ください。
③主要ステークホルダーの中での従業員に対する成果配分の比率の低下
財務省「法人企業統計」で、主要なステークホルダーに対する成果配分の状況を見ると、従業員への配分の割合が低下し続けており、かつては60%以上だったのが、2023年度には54.2%となっています。一方、株主・役員に対する配分はほぼ一貫して上昇してきており、2015年度に15.6%だったのが、2023年度には17.9%に達しています。(図表4)
「企業は必要以上に現金・預金を貯め込んでいるのではないか」との指摘に対して、経団連『2025年版経営労働政策特別委員会報告(経労委報告)』P.171では、
*資産全体に占める現金・預金の比率が1990年以降、10~14%程度とほぼ横ばいで推移している。
*とりわけ中小企業では、現金・預金を厚めに保有し非常時に備える必要性が高い。
*一定水準の内部留保を保有しておくことは、リスクに備えながら、安定的で持続的な企業経営を可能にし、将来への投資の原資にもなる。
*企業は、自社における内部留保の意義・あり方について理解を求めていくことが重要である。
と擁護しています。
企業にとっての内部留保や現金・預金の意義、重要性を否定する者はいないと思いますが、問題なのは、その積み増しが他への配分に比べてバランスがとれたものであるかどうか、従業員に生活水準の低下という犠牲を強いた上で、積み増しされたものでないかどうか、ということです。
企業のリスクに対する備えの指標として、「現預金月商比率」があります。企業の保有する現金・預金が売上高の何か月分あるか、という指標です。2000年代前半くらいまでは、資本金全規模の集計で1か月強だったのが、2010年代後半には1.7か月台に上昇しています。2010年代後半には長期にわたるデフレ経済から脱し、経済環境は比較的安定していましたので、現金・預金の積み増しがリスク対応という説明は、無理があるように思われます。
コロナ過の下では現預金月商比率がさらに上昇し、これについてはリスク対応であると思われますが、その後コロナ過が収束したにもかかわらず、現預金月商比率はあまり低下していません。現金・預金が非常に高水準となっている状況においても、内部留保や現金・預金の積み増しによるリスク対応を強調する経団連の姿勢は、まさにデフレマインドそのものと言わざるを得ません。(図表5)
④わが国の賃金水準は主要先進国の中で最低、先進国の中でも低位
OECDの主な加盟国における2022年の労働時間あたり人件費(GDP統計における名目雇用者報酬)を、直近の購買力平価(2023年・・・1ドル=95.10円)でドル換算して国際比較してみると、全産業計で、日本の30.93ドルに対し、ドイツ52.77ドル、フランス52.13ドル、米国49.40ドル(2021年)、イタリア40.05ドル、英国38.65ドルなどとなっており、日本は主要先進国の中で最低で、韓国の32.38ドルよりも低く、チェコの29.02ドル、スロバキアの28.00ドルを若干上回る程度の水準となっています。(図表6)
なお、
*欧米諸国では賃金が高いものの、物価水準も高いのではないか。
*円安だから、日本の賃金水準が低く計算されてしまうのではないか。
との疑問があるかもしれませんが、この国際比較は購買力平価(1ドル=95.10円)で換算しているため、物価水準の違いが考慮されており、最近の円安の為替レートで計算しているわけでもありません。
ちなみに購買力平価とは、米国と各国との物価水準がイコールになる理論的な為替レートで、日米の購買力平価1ドル=95.10円は、米国で1ドルで買えるものが、日本では95.10円であることを示しています。
かつては、日本企業の競争相手は先進国よりも新興国・途上国の企業であり、先進国との賃金比較は意味がない、との指摘がありましたが、「日本企業の競争相手は先進国よりも新興国・途上国の企業」という発想こそ、まさにグローバル経済の下で、日本企業が自ら新興国・途上国の企業との低賃金・低価格競争の渦中に飛び込んできた証拠です。米国の企業も、欧州の企業も、韓国の企業も、みな熾烈な国際競争を繰り広げており、そうした中で、欧米の企業では時間あたり50ドルの人件費でやっていけるのに、なぜ日本企業が30ドル程度の人件費に止まっているのかということを、よく考える必要があります。
また、わが社は海外事業展開をしていないから、賃金の国際比較なんて関係ない、というような企業もあるようです。しかしながら、日本で働く勤労者には、日本の経済力に相応しい生活を送る権利があるはずです。従って、日本で事業活動を行う企業は、従業員に対し、わが国の経済力に相応しい賃金水準を提供する責任があります。
「経済力に相応しい賃金水準」を具体的に示すのはなかなか難しいですが、労働分配率が主要先進国と同等であれば、日本全体としては、経済力に相応しい賃金水準になっていると言えます。しかしながら、わが国は賃金水準だけでなく労働分配率も低い状況にあり(後述)、労働分配率が低いということは、わが国の賃金水準がわが国の経済力に見合ったものになっていないということですから、グローバル企業であろうがなかろうが、賃金水準を国際比較した上で、わが国の経済力に相応しい賃金水準を実現していく必要があります。
人材獲得という点からしても、少なくともグローバル企業では、海外企業と人材獲得競争を繰り広げており、すでに海外の同業他社の賃金データを参考にして国内従業員の賃金決定を行う企業が出てきています。
もっぱら国内のみで事業活動を行っている企業でも、労働市場では、グローバル企業との人材獲得競争を行っているはずです。
そして地場の企業のように、一見、海外企業やグローバル企業との人材獲得競争とは無縁の企業であっても、採用や人材流出という面で、グローバル企業やグローバル企業と人材獲得競争をしている企業の影響は避けられません。
経団連『経労委報告』序文では、
*雇用の安定を最重要視し、自社の支払能力を基礎に、総額人件費管理を徹底すべき(2001年)
*ベースアップは論外。定期昇給の凍結・見直しも労使交渉の対象(2003年)
といったこれまでの旧日経連、経団連のスタンスが、「国際的な賃金水準の低迷をもたらした」と反省を示しています。
しかしながらそれだけでなく、1995年に旧日経連が発表した『新時代の「日本的経営」』報告書において、
*一部の幹部社員以外の専門職、一般職、技能職などを非正規雇用とする雇用ポートフォリオ
*職務内容や職務階層に応じた複線型の賃金管理を行い、成果・業績によって格差を拡大させるラッパ型賃金管理
が打ち出され、
*雇用ポートフォリオによって、同一価値労働同一賃金が確保されないまま正社員の職の非正規雇用への置き換えが進み、
*ラッパ型賃金管理が成果主義賃金制度の導入を促進したため、『経労委報告』P.152で指摘されているように「様々な問題が顕在化」するとともに、中高年層の賃金水準引き下げを招いた。
ことの影響も大きいものと考えられます。『経労委報告』P.16が主張する「ジョブ型雇用」など「自社型雇用システム」の推進が、同じ轍を踏む結果となることが懸念されます。
⑤労働分配率も主要先進国で最低
カナダを除く主要先進国プラス韓国の計7カ国について、GDP統計ベースの労働分配率を国際比較してみると、全産業では、日本は最低となっていますが、以下のような特徴点が見られます。
*日本は、労働時間あたりGDPは7カ国中6位であるが、労働時間あたり人件費は7カ国中の最低となっている。
*すなわち、日本の生産性は国際的に見て低いが、それ以上に人件費が低いために、労働分配率が最低となっている。
*米国の労働分配率は日本と同水準だが、これは労働時間あたりGDPが他の国々に比べ高いにも関わらず、労働時間あたり人件費がドイツ、フランスよりやや低いためである。(図表7)
一般論としては、ベースアップのためには名目生産性の向上が必要です。しかしながら、生産性に比べて人件費が低く、その結果、労働分配率が低いのであれば、まずは人件費を引き上げることによって、高賃金・高生産性をめざすべきです。鶏が先か卵が先か、とよく言われますが、卵があるなら鶏に育てるべきです。
なお、経団連『経労委報告』P.166では、労働分配率低下の理由として、
*技術革新に伴う労働の代替やグローバル化などを背景とした労働分配率の低下トレンド。
*労働分配率の分母に純粋持株会社が海外子会社から受け取った配当金やロイヤリティ収入が含まれている可能性があること。
などを挙げていますが、いずれもわが国の労働分配率が主要先進国の中で最低であることを正当化する理由にはなりません。また、「海外子会社から受け取った配当金やロイヤリティ」には、国内従業員の貢献による部分も含まれているはずです。
⑥製造業の売上高人件費比率は、日本の11%程度に対し、他の主な先進国は15~20%程度
OECDの統計により、製造業における売上高人件費比率を国際比較してみても、2021年のデータで、ドイツ19.5%、フランス17.6%、ノルウェー17.4%、スウェーデン15.7%、イタリア14.4%となっているのに対し、日本は11.2%に止まっています。これも、わが国企業が低賃金に安住した経営を行ってきたことの証左と言えるのではないでしょうか。(図表8)
わが社の業績が世間一般に比べて厳しい場合の対応
繰り返しになりますが、ベースアップは、
①マクロ経済の実情に応じて形成される世間相場の幅の中で、
②産業の状況や個別企業の事情を一定程度反映して、
決定されています。これが「社会的相場形成」です。
わが社の業績が世間一般に比べて厳しい場合、②の段階において、その厳しさをどの程度ベースアップに反映させるか、ということが問題となります。
*ベースアップの世間相場には、ある程度の幅がある。
*ひとくちに「わが社」の業績が世間一般に比べて厳しい、といっても、厳しさには段階があり、段階に応じて対応する必要がある。
*「わが社」の賃金水準が、世間一般に比べて高いか、低いかも判断材料になる。
といったことを前提とした上で、
①黒字を計上している状況であれば、減益であったとしても、世間相場の幅の中でベースアップが行われるべき。
②たとえ赤字であっても、突発的な事情によるもので、いずれ黒字転換が見込まれる場合には、一時金の調整で対応し、世間相場を踏まえたベースアップが行われるべき。基本賃金が世間水準に後れをとった場合、それを取り返すためには大変な労力が必要なので、この点については、とくに留意する。
③構造的な赤字が続いている場合には、産別指導による個別判断となる。
ということになります。
いずれにしても、経営側から「業績が厳しい」、「支払い能力がない」などの主張があった場合には、それをそのまま受け入れるのではなく、産別の支援も受けつつ、労使で財務情報を共有化し、労働組合として経営状況を精査していくことが不可欠です。
とりわけ、
*手数料、委託料、コンサルタント料
*耐久財の購入費やリース料
などといった、人件費以外の販管費が必要以上に膨らんでいないかどうかを確認し、無駄の排除を徹底していく必要があります。
<図表>
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