枝先の柿/職工を目指すために ~ その1
美術系の大学をはじめとして、学校で金属工芸を学んだ学生さんたちから将来の進路について相談をうけることもしばしば。卒業した後の行方については、多くの方々が悩みを抱えているようです。"工芸"を仕事にしたいと考えてらっしゃる若い方へのヒントになればと、私の考えを書き記します。
その前に、仕事についてあらためて考えておく必要があると思います。一昔前と違って、いまは働き方もまちまち。仕事とはこうあるべきという考えは現代にはもうないかもしれません。ただし、
「憲法27条1項 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。」
すなわち、「仕事に対してひとからとやかくゆわれる筋合いはないよ」という自由と権利が与えられている反面、働かなくちゃいけない義務があります。じゃ働くってなに?ってことになるのですが、よくゆわれるのが「傍(はた)にいるひとを楽(らく)にすること」です。よく考えられたたとえで、まさに的を得た言葉だと思います。あなたがやろうとしている仕事とは、誰かを助けたり楽しませたり、仲間の役に立つするものでしょうか?
ひとそれぞれ目指す道や方向が違い一度に書ききれないので、シリーズで書き連ねてゆこうと思います。第一回目の今回は、解りやすい技術者(以下、職工と書きます)としての道についてお話します。
専門的な才能や技術を持った実践者
ここでは主に工芸に携わる技能者についてお話します。金属工芸(以下金工)の世界では代表的な主な技術として、鍛金、鋳金、彫金がありますが、中でも鍛金と彫金においてはとくにフィジカルな技能を要する分野かと思います。他にも溶接やロウ付け、ヤスリがけなど、主分野ではないですが熟練した技が求められることもあります。
職工は卓越した技能をもち、製品の製作工程においてスピードと高い品質にくわえて感性や表現力も求められます。この情報化社会において時代遅れかもしれませんが、同じ設計図を元にした製品(完成品)を見比べても、引き締まって格調高く見えるものもあれば、逆に野暮ったく品が無く見えるものもあります。ちょっとしたエッジ(たとえばコップの縁など)の切り方ひとつで、目に入ってくる光のラインの見え方が変わったりするものです。
職工の訓練ついて
フィジカルの技能である以上、修練が欠かせないは事実。このあたりはスポーツによく似ています。人間の体というのは不思議なもので、修練すれば才能が伸びる一方、やらないと衰えてゆきます。また、自分の限界を少し超えたあたり、ちょっと無理をして負荷をかけた状態を経験しないと才能が伸びません。日々楽な作業を繰り返していても全く成長しないのです。言い換えると、きつい練習を耐えた選手こそがプロプレイヤーとなれるのと同様、優れた職工を目指そうとすると仕事以外にも修練を重ねる苦労があると思います。決して楽なものではありません。
ただし時代の流れにともなって、別のあり方も目にするようになりました。”楽な職工”になりたいと希望する人が増えてきたように感じます。安定した給与があって、工期に追われず、同じ作業を反復しない職業を理想とする考え方です。そもそも苦労=修練をするつもりはないので、技能の向上は望んでいないようです。働き方が多様化してきた時代ですから、これもありなのかもしれません。
手仕事の次世代を担う若者たち、工芸の世界に興味をもつ方々にものづくり現場の空気感をお伝えするとともに、先人たちから受け継がれてきた知恵と工夫を書き残してゆきます。ぜひご支援ください。