大林宣彦監督インタビュー 成城と映画と平和について(第2回)
成城大学で自由な学生時代を過ごす大林監督。一方で、自主制作した映像が大きな注目を集め、映画作家として活躍を始めるようになります。創作の根幹にあった思いとは。当時の成城学園にあった「自由」とは。貴重なお話が続きます。
※成城学園100周年記念サイトの企画「100人メッセージ」の取材で、2016年3月に伺ったお話を基にまとめています。
第1回はこちらから↓
8ミリで映画の歴史を変える
日本は、まだまだ僕たちの時代は敗戦が残ってましたからね。道路は舗装されてなくて、どこ行っても粉じんがまき散ってるような。銀座に荷馬車が走ってた時代ですからね。
でも、成城ってのはホントにヨーロッパだったんですよ。ここには映画の主人公たちが住んでるから、僕もその一人になるという感覚ですよね。
そこで父親からもらった8ミリのキャメラを持って「これで映画を作るのは戦争中にはなかったことだ。自分の道はこれで開いていこう」ってことで、8ミリで映画を作ってそれで発表する。
仲間たちは絵を描くやつは画家になる。彫刻するやつは彫刻家になる。音楽をやるやつは音楽家になる。映画だけは、撮影所に入って撮影所の職員になって、監督に入って、順番が来てようやく監督になるわけですよ。そんなことやってられませんからね。
それで僕は8ミリで、当時まだ日本で仲間3人しかいなかったですけど、僕を含めて。たった3人で8ミリで映画を始めて。アマチュアはいっぱいいたんですよ。そうじゃなくて8ミリで映画の歴史を塗り替えようという意思を持ってたのが3人だけで。
画廊を借りまして、画廊に白いキャンパスを置いて、友達から借りて、絵描きから、それに自分の映画を写せば、画廊で映画が発表できるわけですよね。これが「内科画廊」といって、銀座の7丁目にやってた小さな画廊でしたけど。そこで発表会やったら4丁目から人が並んだという大騒ぎになりまして。それで『美術手帖』などが「新しきフィルムアーティストの時代がきた」というふうに認めてくれて。映画界じゃあくまでも8ミリなんてのはアマチュアですけども。映画監督よりフィルムアーティストの方がかっこいいぞ。俺たちの時代が来たって。
当時の日本の若者は映画なんか見なかったんですよ。ホントに映画は落ち込んできてね。どう落ち込んでいたかというと、『岸壁の母』という歌が流行ったら、その映画を作る。作ってる内にブームが終わるから、できた時はコケちゃうみたいなね。
市川崑さんがまだお若くて、先輩の成瀬さんとだったかな?誰だったかな?コンビで映画をつくられて、年配はそちらが演出する。若者は市川崑さんが演出するみたいな。そういうメチャクチャな時代ですよ。
二十歳で「映画作家」に
で、僕らの映画。僕、映画ってのは、例えば、僕は映画は全部見てるんですよ。見るのは大好きだから。だから当然、黒澤とか小津とかね、憧れの監督がいっぱいいますけども。
僕らの時代は野球少年ですんでね。野球しかなかった時代だから。何しろ敗戦後に最初に日本の3大スターは、吉田茂と川上哲治と水泳の古橋廣之進。この3人がヒーローだった時代ですから、泳ぐか野球するか政治家になるかしかない時代ですよ。泳ぐのは僕なんかは海で泳いでるから古橋よりはこっちの方がプロだと思ってるし。野球もやっていて。僕、4つ野球のチーム持ってましたけどね。それぐらい野球少年だったんです。背番号は川上の16番つけて。まだ長島、王が出る前ですから。
それで例えば野球のシーンを撮ろうとする。黒澤明だったらいい夕焼けが来るのを待ってピッチャーが投げて、キャッチャーの後ろにキャメラを構えて、バッターが打ったボールがうまいとこへ飛んでいくと、クレーンアップするだろうと。
それをまねしたらアマチュアですよね。で、僕は自分の8ミリを眺めると「まて、これ野球のボールだな」と。ねじ巻くと30秒撮れるんです。で、夕焼けのいい時に崖に登って、それを放り投げるのね。落っこって壊れたら一巻の終わりだから、仲間がタッーと走って受けとって、はいカット、オッケー。
で、1週間経って現像あがってくると、空を飛んでいくボールの主観が写ってるんです。これは世界の映画界で僕が初めてやった。
みたいなことをやっていたら、それがフィルムアーティストになっちゃったんですよね。だけどまだ横文字の職業が日本にない時代です。フィルムアーティストは称号としてはうれしいけれども、映画監督とは名乗れないのね。映画監督は東宝の監督、松竹の監督、小津さんは松竹で、東宝が黒澤さんで。もし小津さんが東宝に入って、黒澤さんが松竹に入ってたら『東京物語』も『七人の侍』もなかったという、そういう時代ですよ。つまり会社のブランドのもの作るわけですからね。
そんな中で僕は「映画監督」は当然名乗れない。監督は部長みたいなもんだから。フリーの部長っていないでしょう。だからフリーの映画監督はいないわけで。なので、待てよと。俺は小説を書くように映画を作ってる、絵を描くように音楽を作るように映画を作ってるから、「映画作家」でいいんじゃないかというので、二十歳のまだ学生の時に映画作家という名刺を作って、以降ずっと映画作家で生きてきたというね。
それに食えませんからね。職業にはならないですよ。僕は食うためにコマーシャルをやって。で、コマーシャルで稼いで映画を撮ってたというね。
成城の自由さが僕をつくった
そういう出発をさせてくれたのが成城大学で。なので成城の自由さが僕をつくったと言えるような。
自由というのはね、僕たちにとっては戦争があるわけ。戦争が不自由なんですよ。
大体僕が8ミリの小さなキャメラを持って出てきた。当時の世の中の常識からいったら、そんなもの何の役にも立たないわけでしょ?
うちの父親が岡山大学を一番で卒業して学者になるつもりだったら、いきなり日中戦争で戦争にとられて、太平洋戦争が終わるまで帰って来なかった。だから8年間いなかったんですよね。研究室は1度出たら戻れませんから、町医者で生涯過ごして。それで「平和というものが、人間が望んだものが誰でも自由にその道を進めるものが平和だから、お前が選んだ道を行きなさい」と言ってね。「医者になるなら、お父さんの財産全部譲れるけど、それ以外になるならお父さんに譲れるものは何もないから、この8ミリの機械でも持っていくか?」と言って。これは当時医者とか会社社長が道楽で持っているような、今でいえば最高級のゴルフクラブの会員権に相当するような高級な趣味ですよ。若者が持てるようなもんじゃなかったのね。
でも僕にとっちゃおもちゃに過ぎない。それが良かったのね。おもちゃに過ぎないこのキャメラで映画作家になったら、これが平和日本が生んだ映画作家だろうと。35ミリの映画は戦争を記録したけども、8ミリの映画はもう戦争を記録することはないんだろうとね。
そういうリベラルな思想を生んでくれたのが成城学園の「自由」で。あの「自由」はやっぱりそういうものだったと思いますよ。決してちゃらんぽらんじゃなくて確信犯です、先生方がね。やっぱり戦争を体験した人たちだから、我が校の学生たちはそういうふうに、ほんとの平和、自分が選んだ道を十分に生きる、生きさせてやろうと。そういうことで見守ってくれてたから、僕のような自由な学生が5年間もいてね。で、うちの恭子さんが出るまで待ってあげて。彼女は英文科を優秀な成績で出ましたけども。
それで当時の学部長だったかな、がおっしゃった。
「大学なんてのはまともに出るやつはろくなやつがいないんだ、昔から。大学なんてのは横に出るのがいいんだ。君も久々に我が成城から横に出る学生だから、どうか学校の名前を高めてくれ」と、そう言われて。先生もそういう先生だった。だから堂々と横から出ました。
つまり僕たちの時代っていうのはまだそういう、「こんな疑問に答えること能わず」なんて言って試験に答えなかったとか。つまり答えられるんなら答えた方が満点取るからいいわけでしょ? でも「こんなバカな答案に答えるのはバカバカしいから書かない」と言って捨てる方が当時の学生だったの。
つまりいい作文を、問いに対していい答えをする子は戦争に行く子なんですよ。僕らの時代の感覚では。だから愚問だと分かっていて、こんなものに答えるような子どもはきっと国家の奴隷になって、また戦争して殺されるぞ、そんな者にはならんぞという。そういう制度から、枠組みから、いかに外れるかってことが自由だったのね。
特に大学なんてのは、受験があって大学で管理されて、管理なんかされたくないと思っていたら、成城には一切そういう学生を管理するという思想が全くなくて。
僕は、少年時代のうちの両親も含めて、そういうことの中で育ってきたんですよね。
第3回に続く。
文=sful取材チーム 写真=本多康司
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