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アカシヤの雨

〽アカシヤの雨に打たれて、このまま死んでしまいたい…
アカシヤの雨は、西田佐知子唄う「アカシヤの雨が止む時」の第一章節の冒頭にある。何と古い歌をと笑われそうだが、その通り確かにもう三十年いやもっと前に唄われ随分流行った。初めて聴いた時音感の鈍い私もいいメロディだと感じて口ずさんでいた。でも題名と歌詞の出だしにある「アカシヤの雨」に、はて?と首をひねりながらである。意味が分らなかったのだ。分らないまま気に入ったメロディであったから風呂に浸かりながら、或いは外出して道を歩きながら〽ララララーラ・ラララ・ラーララ…と低く鼻歌でご機嫌であった。道で追い越して行く何人かが訝しげに振り返ったが気にならなかった。
我が家は横浜市中区にある築四十数年の古い木造の二階家であるが、周囲の環境は素晴らしくこの環境のよさは自慢できた。というのも狭い一間幅の小径に似た市道を隔てて境のフェンスの向こうに、横浜市の根岸公園が広がり実に閑静であったからである。
二階の窓から見下ろすすぐが公園の裏門であり、入った一角に木々の緑に囲まれた子供広場が眼に入る。顔をを上げれば樹木の枝葉の間に石川町や関内辺りのビル群が鮮やかに眼に入る。佇むうちに我が家の豪華な庭園だと錯覚に陥りしばしの間夢気分に浸れる。
夜ともなればビル群の明りが煌めき、灯台として立つマリンタワーの赤と青の光が数秒間隔で点滅しそれが一晩中望められる。公園は別名根岸森林公園とも呼ばれるが、元根岸競馬場の跡地であり現在横浜市が所有し連日市民に開放しているのである。
競馬場の設立は古く慶応三年に遡るが、現存の施設は昭和初期に改築され競馬競技が常設となり随分賑わったという。ちなみに明治天皇は競馬をことのほか好まれた。いわゆる競馬ファンであり、設立に意欲的であった。特に文久二年に発生した生麦事件の際斬りつけられた英国の一人が、居留地に住む競馬関係者であったことから、明治天皇はは居留地住民を通じ、強力な外国勢を懐柔する意図を持たれていたかも知れない。
多忙を極めた明治天皇であったが、競馬開催日には競馬ファンとし計十三回行幸に及んだ。競馬は戦争の激化で昭和十七年に廃止され、戦後は米軍が接収し金網フェンスに囲まれた中で、米軍人やその家族友人たち専用のゴルフ場として使用されていた。その間、良質の芝を育て樹木を大事にと徹底した管理下にあったのである。
競馬場開設当時に植えられ、その後米軍の管理下で植樹された数多くの常緑樹などが大きく成育し、古色を帯びた大樹の森となり森林公園の名にふさわしさになった。ゴルフ競技に必要な起伏のある広い芝生に小さな池を配し、それが今日穏やかな赴きのある公園になっている。夜ともなれば森閑とした佇まいとなり、賑やかな横浜市の一角とは思えない静けさになる。二階の窓を開けた前に太い木が高く扇状に枝葉を広げて小花をつけ、秋の落葉期まで視界の邪魔になるものの豊かな自然を満喫する日々を過ごすことができた。
時間があれば広い公園内を散策するのも快適であった。そんな時決まって何かの歌をハモってしまう。「アカシヤの雨が止む時」もその中の一品であった。ハモりながら「雨」の意味が何なのか気になっていた。アカシヤの木に降る雨だろうがなぜアカシヤなのか、その枝葉から漏れ落ちる雨滴に打たれ、濡れそぼれ死んでそれがどうだというんだろう…などと考えてしまう。これも詩心のない者の悲しさだろうが私にはどうも分らない。
第二章節の出だしも〽アカシヤの雨に泣いている…と唄う。聞くは一時の恥というが、なぜか流行歌の歌詞の意味を人様に聞く気になれなかった。知りたいくせに恥をかきたくないという小さなプライドが邪魔をする。第三章節も〽アカシヤの雨が止むとき…とまた雨である。こだわると快いハミングも止ってしまう。
その時、何と私はアカシヤという木を知らないことに気付いて唖然とした。アカシヤの雨より何よりアカシヤの木そのものを見たことがなく全く知らないのだから話にならない。遠藤周作のエッセイに「アカシヤの大連」とか「アカシヤの並木道」があり、清岡卓行の作品にも「アカシヤの花の咲く街大連」とあるらしいが花については分らない。
街路樹とあるから喬木の類であろう。枝葉など木の姿が形作る景色や花の様子などどんなんだろう。読んだ作品から勝手に想像するよりない。石原裕次郎の「赤いハンカチ」に、〽アカシヤの花の下で、あの娘がそっとまぶたをふいた…とあったがどんな花で何色なのか歌詞にない。赤いハンカチとアカシヤのアカから「赤色」と思い込んでしまいそうだ。
成人しそれそ独立した子供達が使い残した古い植物図鑑が書棚の隅にあったので、それを取り出しぱらぱらと捲り調べてみた。改めて見る図鑑の絵はどの植物も実物そっくりに描かれ、その見事さに目を見張りながらアカシヤを探したが木は出ていない。
絵に混じり所々に写真がいくつか載っている。その中にモノクロだが一つ「ニセアカシヤ」の写真があって眼をひいた。短い説明文があり読むと「丈の高い喬木で小葉と無数の白い小花が特徴の落葉樹」とある。まてよ、その時ふっと思い出した。アカシヤとはニセアカシヤのことでハリエンジュ(針槐)ともいい、学生時代に畜産学で馬のアカシヤ中毒症について受講したではないか…と。六十余年も昔のことで記憶がすっかり薄れていた。
たしか、丈は十五メートルに及ぶマメ科の喬木で、木の葉は小片で針槐の名前どおり葉の元に針状の刺があるものの毒性はない。ただ太い幹の樹皮は内側にロビン又はロビチンという有毒成分が含まれ、空腹に耐えかねた放牧馬が誤食して中毒を起こす。
日本全域に植生するが、特に温暖な環境を好み本邦では関東以南に自生が多く、関東以北には少ないという。花は白い蝶形花で〝総状花序〟として名前が知れている。過ぐる大戦まで軍馬の生産が盛んであったその名残りの話である…。
そんな内容であった。終戦で軍馬は消滅し馬の需要は激減した。競馬や一部農耕用や作業用を除いて農家などでの飼育を見なくなった。講義として受けたその内容が微かに記憶に留まっていたのは幸甚といわなければならない。私の記憶や他の資料などによるアカシャについてのの知識は以上であるが、植樹された街路樹にしても、自然林として自生しているにしても私は実物を見たことがなく知らなかった。
それはともかく、休日の午前中などに必要な調ごとを二階の居室せっせと済ませ、片付けの後、読みたい本に熱中する私も、飽きてくると大欠伸し立ち上がり背伸びしたり、窓の外に広がる公園の景色を眺めながら自然に歌を口ずさむ癖があった。
調子っぱずれで下手だが気分が休まり心身が求めるストレスの解消のためにである。当然アカシヤの雨の止むときも入り、ゆったりと古椅子に座り背もたれに寄りかかると、暫く〽ラララーラ・ラララ・ラララ…も低くハモってしまう。そんな姿勢でやがて居眠りを始めるのが〝おれ流〟のスタイルであった。 
公園は自然環境がよい上に管理が行き届きすこぶる気分がよい。そのため上天気の日は家族連れが何組も弁当持参で遊びにきていた。遠方からマイカーで来園する人達のため公園には広い駐車場が用意されているがすぐ一杯になる。
来園者の多くは広い芝生にシートやござを敷き、清浄な空気を胸一杯吸いながら飲食して、お喋りしみどり溢れる景色を見ては楽しく時を過ごす。今年の夏は異常な暑さ続きであったから、枝葉が厚く広がった大樹の下の芝生が〝買い〟であった。木陰のベンチに腰掛けて静かに語り合うご年配の人も多く、日照を避けながら遊歩道をゆっくり散策していた若い人達も、やがて涼しい木陰や日陰の芝生に場所を得て腰を下ろしてであった。
そんな或る日曜日の昼過ぎのこと、公園へ友人と遊びに来たらしい女性の団体である。つま先上がりの坂道を声高に喋る声が二階の居室へ聞こえてきた。暑いのでガラス戸は開け放し網戸だけの窓から喋り声がストレートに入ってくる。
網戸越に見ると洒落た夏の軽い装いで肩から鞄を下げたり小さなリュツクを背負ったりと元気な十数名のご婦人たちであった。年齢は四十~六十歳くらいであろうか、それぞれ好みの帽子を被ったり日傘をさし、手には一様に飲料水らしい小さなポリビンを持ち、声高に喋りながら公園内を散策していたのである。私には見慣れた光景だが、もの珍し気に辺りの樹木を指差してお喋りし、リラックスしての笑い声は姦しいほどであった。
一声甲高い女性の声がした。「あ、この木は何でしょう。細かな花が咲き散っていますけど、この暑いのに花をつけているとは珍しい木ですね。ぼろぼろと小さい花ではありませんか…何という木なんでしょう」に、低く落ち着いた別のやや低い声がすぐに応じた。
「あ、これね、アカシヤなのよ」「ほう、アカシヤですって、アカシヤってこの木なんですか、この大きな木が」「そうなのよ。大きい木でしょ。薄黄色の小花が降るように散っているでしょう。この暑い夏の間中降るように散るのね。それが秋に台風など強い風に遭うとほとんど全部散ってしまうの。花の吹き飛ばされた後には瓢箪型の細い小さな豆みたいな実が顔を出すの」「ほう、初めて見ましたけどこれがアカシヤなんですのね」
私は坐っていた椅子からぴくっと腰を上げ窓から女性達を見た。アカシヤの説明していた女性が指さしている木は、何と二階の窓のすぐ前に広く枝葉を広げて立つ高い落葉樹である。秋に落葉するまで窓からの視界をかなり遮り少々不満に思っていた喬木である。
「あら、そう、アカシヤって大きな木なんだ。初めて知りましたわ」と聞いた女性が驚いたようにいったが、それを聞いていた私こそ「初めて知りました」であった。三十年以上疑問だったアカシヤの木が眼の前にあったのにそれを知らずにいたとは…
落ち着いて説明する声の主は年嵩でリーダー格に見えた。輪の中心で説明しそれを聞きながら一団は何時の間にか立ち止まっている。自信に満ちたリーダー格の声は続いた。
「アカシヤの小花は淡い黄色で八月頃から房のような小花をびっしり連ねると、先からぽろぽろ雨が降るように散るのよ。アカシヤの雨っていうでしょう」「あら、アカシヤの雨ってそういうことだったんですか。私、知っています。西田佐知子のアカシヤの雨が止むとき…を。みんな、この唄を知っているわね」に「知ってる、知ってる」と賛同者が声を挙げ、一人が「みんなで歌いましょうよ」と唄い始めると何人かが唱和した。
 歌い終ると「この唄ってメロディがいいので歌いやすく好きです」「歌詞もステキだわ」[私、歌詞もメロディも全部いいわ」などと高揚して喋っていた。その中で一人がしみじみ「アカシヤの雨ってそういう意味だったんだ」といった一言が私の耳に残った。
私も長く疑問であったタイトルの意味に「なるほど」と感動し、何てことだ…としばらく呆然としていた。アカシヤの木とその小花の散る様子が降る雨のようだとは…。よく見ると確かに薄黄色の小花が今もぽろぽろと散っている。近所の奥方が家内に「この木って嫌ですね。花の時期には道一杯に落ちて汚しますし、落花・落葉の期間に歩くと履物が滑って危ない。庭の掃除も大変です。屋根に落ち樋に詰まって雨水が溢れて困ります」とこぼしていたものだ。拙宅でも同様だったからそれを聞き家内も頷いていた。
木々から散る花や落ちる枝葉で迷惑する家屋のことに無頓着な私であったが「アカシヤの雨」の意味が分り大収穫であった。今更ながら作詞家のものを見る眼や心、それに表現力の高さに驚いた。今まで鼻先で歌いそこまで考えなかった。これで歌詞を読み直してみると全体のストーリが理解でき、メロディーに乗って歌詞が生きるんだと納得できた。
だが、感動も時間とともに冷めるもののようだ。リーダー挌の説明を冷静になった頭で反芻しているうちに「花の色が少し違うのではないか」と思えた。リーダー挌は、薄黄色の小花が降るように」と説明し、私も実際にここで見て花は白色というより薄黄色である。 
僅かだが調べた資料にもはっきり白い花とあり、大学の授業でも「白い蝶形花で〝総状花序〟である」と受講した。花が枝に開く配列を花序といい、総状花序とは白い飛蝶が長く伸びた主軸に添って間隔をあけ止まったように咲いた状態のことと学んだ。
長い間の疑念が目前の立ち木一本と、自信に満ちた一女性の説明で氷解したと高揚した気分でいたが、早とちりしたようで少々残念であった。しかし、私はアカシヤの木を見たこともなく目前の立木の種類すら知らなかった。アカシヤはニセアカシヤのことだと書かれた本もあって主体がはっきりしていない。
目が肥え自信に満ちて説明していた女性も、見誤ったのではないか。目前の立木はそれ程本物に似ていたのであろう。それとも色々な種類があって紛らわしいのかもしれない。
私はこの立木と長い付き合いである。朝に晩に窓を開けると、深山に似た公園の木々の間に満ちていた清浄な空気に生を感じ「やぁ、気持のいいい朝だ。今日も元気そうで何よりだ」くらい呟いていた。それに昨日は一瞬だが、本物のアカシヤだと本性を知らせ私を喜ばしてくれた。本物でなくてもよい。今後〝似て非なるアカシヤの本物と思い付き合って行こうと木肌に掌を当て低く声かけしてやろうと思った。
改めて、そのアカシヤの木の傍へ行きたくなった。玄関を出て小径を見るとすでに散り敷かれた小花でアスファルト面が薄黄色に染まっている。フェンスに沿って大回りして公園に入り、問題のアカシヤの木の下へ行って佇みつらつら木を見上げた。
高く澄んだ青空の下、風もないのに小花がぱらぱらと散り、落花が緑の芝生を薄黄色に染めている。雨とは大仰だが詩心からはそう表現するものであろうと納得しながら辺りに暫く佇んだ。やがて木を離れ久しぶりに百段ほどの石段を登って芝生の広場へ出た。
以前は登るに楽であった長い石段も、八十路に入った私には息が切れる。裏門から高台の広場への最短の順路で、登り切ったそこに手入れされた直径百メートル程の円形芝生の広場がある。横から僅かに弧を描きふっくら盛り上がる公園一の高台で見晴らしがよい。真正面には大きく重厚な鉄筋コンクリートの建物が聳え立っている。これが旧競馬場のメインスタジアムで現在、横浜市が市民のため無料で管理開放する文化遺産の一つである。
旧スタジアムの建設は昭和五年と遥か昔である。その後関東大震災で大きく揺すられ、横浜大空襲の戦火に曝されたがよく耐えた。今は古色を帯びた外壁に蔦が這い年代を感じさせるが、しかし見る者は「現代の高層ビルにも引けを取らない大きさ、頑丈さに加え存在感はは圧倒的ではないか」とその立派さ重厚さに驚嘆してしまう。
 近づいて見上げれば屋上に三基の太い角形の塔が空に突き出た独特な形の建物であり、資料によれば一等馬見席として建築されたとある。一等観覧席ともいわれるが建物の北庭に残る銘板などによれば、英国人建築技師JHモルガン氏が設計し、高さ奥行きとも約六十一メートル、間口約九十二メートルの鉄骨鉄筋コンクリート四階建てと巨大である。なお前述の円形芝生の広場は、二等観覧席として並び建設され威容を共にした同様の建物の跡地となっている。施工は大倉土木が請け負い総工費四十万円とある。
この金額が現在どのくらいの金額に相当するのか分らないが巨額であったに違いない。竣工はまだ昭和恐慌の嵐が吹き残る不況時代であったが、競馬に興味を持たれた明治天皇がその御代に競馬場に足を運ばれ「天覧競馬」の先駆けになったほどと考えれば、公の資金が投入されたことは想像に難くない。レースその他にしばしば下賜金や賞品を下げ渡しされ、明治十三年の春季根岸競馬は「天皇の花瓶賞」レースで盛り上がった。これが後の「天皇賞レース」の端緒になったことを思えば公金の投与も頷かれよう。
明治の治世が終え新たな御代を迎え横浜であったが、まだ田舎の風情に満ち穏やかな土地柄であった。生活の利便を知った多くの外国人は、立地のよい土地に住居を求め外国人居留地を続々と造り、貿易立国として日々発展していた。その一等地もいえる広い高丘の一角に大きさ桁違いの建築物が聳えたのも発展の徴として故なしとしない。それにしてもこの巨大建築物を擁する大規模競馬場へ天皇の行幸あり、天皇賞レース開催ありと賑々しさにはさぞ世間の耳目を集めたことであろう。
旧スタジアムの最上階に上がれば、大展望台として見晴らし絶佳であろうと夢が膨らむ。でも惜しむらくは現在立ち入り絶対禁止である。築九十年になんなんとする建屋は脆く崩落の危険があるとのことで出入り口は固く閉鎖されている。一等観客席には貴賓席もあると聞くが、「玉座」も備えてあるのではないか。
その後大正、昭和の天皇が行幸されたかどうか分からないが、玉座があるなら明治大帝の徳を慕ってのことであろう。玉座の有無に関わらず鉄筋鉄骨コンクリート四階建て建屋も崩落の危険に曝され、口さがない者の中には既に廃墟だといい放っているほどと聞く。
生者必衰の理に似て寿命が迫り早や「死に体」とか。卒寿には遠いが何やらわが身に照らし同情を禁じえない。建屋から五、六メートルの周辺に高さ三メートル以上の頑丈な金網フェンスが張りめぐらされ、そこここに「監視カメラ作動中」の標識が張り付いている。趣旨は分るが「堅固で何と立派な」と喜んで近づく人たちを建屋のどこかにカメラの無機質な眼が見張っていると知り、その無粋さに見晴らし絶佳の空想も崩落してしまう。
気分を変え弧を描く広い芝生の中央に立てば、樹林の間から北方向に関内、桜木町の白く立つビル群や、みなとみらい地区に一段と高く聳え立つランドマークタワー手に取るように見える。眼を西に移せば墨絵に似た丹沢山塊の稜線が落ち込む先に、少々雪化粧の残る名峰富士の姿が意外と大きくはっきり現れる。どこから眺めても二等辺三角形の富士山はどんと坐り、その居ずまいは名峰の名に恥じない上品さに暫く見惚れてしまう。
遊歩道には植樹して長年月を経た太い胴回りの桜の古木、少し離れた梅林などは季節に応じて緑の葉を茂らせ、花をつけ香りを放ちこれを愛でる人達に憩いのひと時を与えやがて静かに散る。不変を誇る常緑樹も目立つことなく葉を枯らし誘う風の後を追って密かに身を消している。茂る枝葉と開く花、散る花に落葉の姿、年を経て崩落を待つ高丘の巨大建築物が黙して佇立する姿に人々は何かを感じ改めて物思いに耽る。
「アカシヤの雨」の歌詞にある「冷たくなった私へ」降るように散る花の姿に納棺時の送り花が重なり、人もまた等しく…か、と散策の足が鈍りがちになる。                          

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