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リチャード・バック「イリュージョン」 捉え方の相対化 (読書感想文のようなもの)

 お勧め記事で昔読んで好きだった「イリュージョン」の紹介が出てきました。

 バック作品では「カモメのジョナサン」が最も有名ですが、私は「イリュージョン」の方がずっと好きでした。でも「ジョナサン」が無ければ「イリュージョン」を読む事も無かったですが。

 「ジョナサン」は高校の時に友人に紹介された読みました。薄い本ですぐに読めるよと言われて読みました。けれど、書いてある事はわかっても意味はわかりません。わからないのは私が当時何も考えていなかったせいです。ジョナサンが「高み」を目指して飛ぶのですが、私にはそれがありません。勉強をできるだけして大学に行って・・・と考えているだけから高みなどあるわけは無いのです。

 次に「イリュージョン」が出てこれは自分で買いました。こちらの方が「ジョナサン」より余程好きになりました。ジョナサンは自分で気付いて自分で高みに登ってそれに周囲にいた特定のカモメが従うのでスピリチュアルの教祖のようなお話なのですが、「イリュージョン」では救世主のドンがリチャードと1対1のコンパニオンになっていて、しかもその特殊能力以外は一般の人間なのでわかり易いのです。

 救世主ドンの言葉は同じ面白いのです。私たちはこれはこうだと特に理由も無く思っている事を彼は相対化します。とても簡単に。言われてみれは確かにそうかもしれなな、と。考えた事もなかったよ。

 何も考えないで生きている人にはドンのする事はただのマジックで、ドンは手品師のような存在です。でもよく考えると途端に救世主です。どちらとして見るかは私次第になります。そしていろいろ言った後にサッサと死んじゃいます。えっ、撃たれたからってさ、いつものように奇跡を起こして治しちゃえば死なないでしょ?、と思うのですが、死んじゃいます。そこも相対化です。存在自体が相対的です。奇跡を起こし何でもできると思わせといてそこまではしない。奇跡がいつでも絶対的なパワーで働くってのも無いってわけです。

 ドンは死んで、これからはリチャードは自分で何でもやらないといけない。いつまでもドンに頼って生きててはいけないのです。これはスピリチュアルでもちゃんとしたグルなら必ず言う事で、要は「生き方ややり方は教えた。でも、人生は自分のもので、目標や行き先は自分で決めるしかないんだよ。」という事です。だからドンは死んじゃうわけです。(私はスピリチュアルの信者では無いですが、リチャード・バックは完全なスピリチュアルの人です。後から知りましたが。)

 この本にはいろいろ名言が出てきますが、私は大切なのはそれだけじゃないと考えます。それは何事も絶対的に捉えるのは危険で、相対的に捉えるべきだよ、という点が大事だと考えます。だからドンが死んでしまったのです。もし絶対的な何かを求めよというのであれば、ドンは教祖様に君臨していなければおかしいですから。そして教えは教義になりカルトかするはずです。でも、ドンは死んじゃうのです。

 というわけで、ドンが死ぬのはリチャード・バックの良心からのものです。私は絶対です。私は正しい。私は正義。だから私に従いなさい、とは言わなかったのです。結局、見方は教えられるけど、あなたの人生はあなたのもの。だから厳しいけど頑張ってねと。

 この事は「ジョナサン」でも少し触れられています。ジョナサンを師匠として慕うカモメの中にジョナサンを神格化して考える絶対主義者が出てきたりしておかしな事になっていました。併せて読み返すのも良いかもしれません。

 ところで、これに関係するスピリチュアルについて、私はまた調べ直して今書いている小説に反映しました。リチャード・バックを直接調べ直したわけではありませんが、その基になったあたりの事です。そろそろ完成させたいと思っています。(前のいくつかの記事でも触れているのがあります。参考まで。)

 追伸
小説を書いている方向けに、作品の感想文書きを承っています。

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