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マザーアースからラバーアースへ

 先週末は、北杜市武川町でNPO法人アースマンシップによる「自然とつながる・森にあそぶ〜見抜く力を育てるために〜」というプログラムに参加してきた。通常は3泊で開催されるところ、その日程では来られない人も参加できるようにと初めて1泊で開催されたとのこと。長く滞在することで深まる学びも当然あるであろうが、1泊のプログラムを通してでも、今の自分に必要で、どこかで懐かしくも新しい学びが始まったように思った。どのような形であろうと本質的な学びは、自分の新たな可能性や忘れていた潜在性につながらせてくれると同時に、もう手放す時期が訪れた自分の中の古びたパターンや在り方に気づかせることを促してくる。だから、楽しかったとか満足したという単純な言葉で表せる時間ではなく、新たな自分の広がりへの喜びと痛いところを突かれてまいったなというある種の居心地の悪さや”成長痛”も入り混じった体験だった。 


 身体感覚を開いて、木々とエネルギーを交感しながら森に入っていくことからプログラムは始まった。闖入者としてではなく、身体や意識を森のリズムに合わせるようにして森に入っていく。鎌とのこぎりの使い方を学び、木々に手入れをすることで、その場に光と風を通すことを学んでいく。そして、それは地下を流れる水を通りやすくするということでもあるということも学んだ。切ることを選んだ枝、自分が使っている道具の取り扱い方がぞんざいであることによって、それが全体の流れを滞らせることにつながるということを伝えられハッとさせられもした。全てはつながっていると頭で分かっていても、その現実に即して生きることには必ずしもつながらない。その現実を体現して生きるためには、座学だけではなく、サポートや適切な指導が存在する場で地道に身体を動かしながら、失敗することも含め、体験的に我慢強く学んでいく必要がある。


 夜はみんなで夕食の準備をする。スタッフの方々や以前にプログラムに参加されたことがある方々がある程度は活動の中心にいて、新鮮な食材自体はすでに用意されているものの、休養することなどのオプションも含めて、その場にいるそれぞれの人が自発的にグループ全体と夕食のためになんとなく行動していくことを自然と学んでいっているように映った。学ぶべきこととされる内容が外から降ってくる手取り足取りのやり方が唯一の学びの形ではない。場の雰囲気とその場にいる先達たちの在り方から感じ取って自分から動き出す中から生じる学びも大切なのだ。そして、現在のような不確かな時代においては、後者の学びの形から醸成された全体性に気づきながら自発的に個性を発揮する力がより必須になってくる。


 翌朝、生演奏で奏でられた美しい馬頭琴の音色に揺られながら、寝ぼけ眼を擦りつつ身体を目覚めさせていく。そして、みんなで外に出て自分の身体に意識を向けながら、優しく身体に触れていき、普段は気付きにくい身体のバランスの乱れを整えていく。それから、宿泊していた古民家の目の前にある自然農の畑に出て土に触れ、数種類の大豆をみんなで植えていく。鳥のため、大地のため、そして、人間のためになるように願いながら地中に種をそっと置き、土をかぶせていった。


 午後にはまた前日に入った森へ新たな気持ちで戻り、手入れをしていく。何も考えずに手を動かしてみたり、時に立ち止まって広範囲を俯瞰し、どこに光や風が通っていないかを見極めてまた作業に戻っていく。自然環境破壊が進み、人類という種はいらないという声も聞こえたりするが、その意見にはいつも違和感を感じてきた。では、人間に与えられた役目とは何なのか?森の手入れをしていくことで、人間の誰しもに本来備わっているであろう「ケアテーカー」という存在が呼び覚まされていく。人間が自然の一部でありながらも、同時に分離していると知覚できる特殊な性質を与えられているからこそ、自然からの恵みを受け取り、その感謝の気持ちから自然にお返しをするという互恵的な循環を内包することが出来る「ケアテーカー」という役割。その現代社会では「忘れさられがちな自分」が記憶の底から呼び戻されたときに、生命ある全てのものとのつながりを感じて、それに基づいた暮らしを営むことが出来るようになるだろうか。


 家に戻って、プログラムの余韻を感じながらアメリカの著述家チャールズ・アイゼンシュタインのインタビューを聴いていたら、表題の「マザーアースからラバーアース」へという変容についてが語られていて、我が意を得たりという思いがした。

 
 地球が人類にとって母としてだけあり続ける限り、我々は子供であり続け、地球にケアしてもらうという依存の意識から抜け出すことが出来ない。子供が大人に依存することが必然であるように、依存自体が悪いわけではなく、むしろ必要な状態だと思う。ただ、より自立が求められる時期を過ぎても過度な依存が続いていることで無理が生じてくる。依存が行き過ぎた末に、いわゆる先進国が創り出した経済至上のシステムは搾取・中毒の道を邁進し続け、母としての地球を傷つけ続けている。個人や社会のレベルでは、その過度な依存的意識が、女性(性)への暴力や搾取の底流にあるのはまず間違いないだろう。そして、その暴走しているシステムとそれに付随する思想は地球が生きている存在だという見地をそもそも持ち合わせていない。


 今世界で求められていることの一つは、自分を含め多くの大人になりきれていない大人の身体をまとった子供たちが、通過儀礼を経ることで幼年期を離れ、青年、地球を愛し地球に愛される者へと変容していくことである。人類が子供の意識に留まり続けるのであれば、母としての地球を当たり前に思って好き勝手し続けるのかもしれないが、恋人や伴侶たる地球と互恵的な関係を築くとなるとそうはいかない。恋愛がそうであるように、僕らは自分自身の価値を体現し、それを言動で表し、恋する相手にアピールしなければならない。地球に求められるような恋人、そして、地球にふさわしいケアテーカー・伴侶、生き残るにふさわしい種になれるよう努めていかなかればならないのだ。母なる地球(マザーアース)から愛すべき伴侶としての地球(ラバーアース)へ。今、そんな変化が求められている時代に僕らは生きている。



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