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「私たちの心が実現できると知っているもっと美しい世界」 悪 (第29章 後半)

本の内容紹介、著者チャールズ・アイゼンシュタインについてと目次。

 すべての寛大な行為は、寛大であることへの招きなのです。すべての勇気ある行動は、勇気を持つことへの招きなのです。すべての無私の行いは、無私であることへの招きなのです。すべての癒しの行為は、癒しとなることへの招きなのです。そのような行為を目の当たりにして、あなたもこの招きを感じたことがあるはずです。


 ペルーで起きた列車事故についてのニュースを読んだことがあります。旅行者や観光客は冬の山岳地帯に取り残され、食料もなく暖も取れない状態でした。もしその夜に地元の村人たちが食糧や毛布を持って彼らを温めてくれなかったら、多くの人たちが亡くなっていたかもしれません。彼らは貧しい村人たちで、自分たちの唯一の毛布を差し出していたのです。



 そのストーリーを読んだとき、自分の不安感がどれだけ取るに足らないものに見え、自分の心がどれだけ堅く閉まってしまっていて、自分の寛大さがどれほどちっぽけなのかを思い起こしたのです。私はある種の心の開放を感じました。あの貧しい村人たちが最後の毛布を贈ることができるのなら、きっと私は自分の経済的な将来をそれほど心配する必要はないはずだ。私は与えることができる。大丈夫なはずだ。


 このストーリーを解釈する一つの手段は、言うまでもなく、一見貧しく見える村人たちが私たちよりも富んでいると結論づけるというものです。富の新しい定義を試してみましょう。「寛大になることの容易さと自由」というものです。この村人たちはおそらく、お金とその幻想的な安全性を追い求める中で私たちが得ようと探し求めているものを持っているのです。一つには、彼らはコミュニティの中にいて、周りにいる人たちにケアされることを知っています。私たちのような貨幣経済の中ではこれは真実ではありません。第二に、彼らは土地との深いつながりと所属しているという感覚を持っています。関係性を通じて、彼らは自分たちが何者であるのかを知っているのです。これは、どれだけの量のお金があっても代えることができない種類の富です。つながりを絶たれている私たち現代人には、再構築しなければならないことがたくさんあるのです。この村人たちのような人たち、そしてインタービーイングから生きている人たちは、私たちの潜在的な豊かさとインタービーイングという根底的な真実を思い出させてくれるのです。彼らの寛大さをただ目の当たりにすることが、私たちを豊かにしてくれます。


 私たちは皆、一度や二度は寛大さを目の当たりにし、それがどのように私たちの心を開くかを感じる幸運に恵まれたことがあるでしょう。それにもかかわらず、もしあなたが私のようであれば、「でも、もしそれが大丈夫ではなかったら?もし私が与えても、利用されるだけだったら?もし私が与えても、何も残らず、誰も私のケアをしてくれなかったら?」と話す声を胸に抱いているでしょう。このような悲痛な問いの根底には、さらに深い別の疑い「もし私が宇宙の中で孤独だったのなら?」があります。これは分離した自己の原初的な恐怖なのです。それの論理の中では、与えることは正気ではありません。もし私と世界が一つであるのならば、私が世界に対してすることは私自身にもすることになり、寛容であることは自然です。しかし、もし私が世界から切り離されているのであれば、私が行ういかなることも私に戻ってくる保証はないのです。私はそれをどうにかこうにかして、見返りの道筋や保証を生み出さなければなりません。もし私が与えるのであれば、法的なものであれ感情的なものであれ、確実に見返りを得るために、受け取り手に何らかの影響力を行使しなければならないのです。少なくとも、私の気前の良さを他の人たちに見てもらい、彼らが感銘を受け、私が社会的見返りを得られるようにしなければなりません。このような考え方全体が、ギフトの精神に反しているということに気づくはずです。


 「もし誰も私のことをケアしてくれなかったとしたら?もし大丈夫ではなかったとしたら?宇宙の中で私は独りぼっちだったとしたら?」というこれらの疑問はまた、ワンネスやインタービーイングの体系が、”ダークサイド”を無視しているのではないかという懸念の根底にあるものです。誰かが私に悪の存在を認めさせようとするとき、痛みを伴う何かから彼らは話しています。私はその痛みをよく知っています。なぜならそれは私の中にもあるからです。それは憤り、苛立ち、無力という感情です。執念深く邪悪な「他者」が宇宙全体に織り交ぜられており、それが常に信頼することは少し馬鹿げていて、与えることも馬鹿げていて、そして、愛することを決して安全ではないものにしているのです。もちろん、それが多くの場合私たちの体験だという世界に私たちは生きています。それを現実の基本的な特質だとみなし、それを否定するどんなこともが危険なほどにナイーブだと考えるのも不思議ではありません。しかし本当に起こっていることは、私たちが自分の体験を現実に投影し、そうすることで、その投影に基づいて私たちは見て、その論理の内側で行動することによってさらにそれを現実化していっているということなのです。


 悪は分離の認識に対する反応であるだけでなく、それはまた分離の産物でもあります。私たちはどのようにして、この無慈悲で邪悪な「悪」に対処すればいいのでしょうか?力が悪の理解する唯一の言語であるならば、私たちはそれに力強く参加せざるを得ません。先に引用したオーウェルの台詞が示すように、私たちも悪になるのです。人間は何千年もの間、悪を制圧するという名目の下、恐ろしいことを犯してきました。悪のアイデンティティは変わり続けます。トルコ人!異教徒!銀行家!フランス人!ユダヤ人!ブルジョア階級!テロリスト!というように。しかし、その物の見方は同じなのです。武力という解決策も同じです。さらなる悪が生まれるという結果も同じなのです。私たちは永遠に自分自身の妄想のイメージと戦わなければならないのでしょうか?その結果を、傷だらけの地球の至るところで私たちは目にしています。「悪魔の最大の手段は悪魔など存在しないと信じ込ませることだ」ということわざがあります。おそらくその反対も真実なのでしょう。「悪魔の最大の手段は悪というものが存在するという考えなのです。」

 
 このパラドックスの巧妙さを十分に理解するためにしばし時間をとりましょう。「悪は存在しない」と言っているわけではありません。本質的には、悪は物語であると言っているのです。悪が実在しないという意味でしょうか?いいえ、密猟者が象から牙をもぎ取るように、モンサント社がインドの農民に遺伝子組み換え種子を売り込むように、政府が葬列にドローン攻撃を命じるように、悪は現実に存在しているのです。これらは氷山の一角であり、私たちの地球を揺るがしている激変の小さな震えなのです。


 悪は現実に存在しています。それは他のいかなる物語にも劣らない現実です。他の物語とはどんなものでしょうか?アメリカは物語であり、お金は物語であり、自己さえも物語なのです。あなたの自己以上にリアルなものがあるでしょうか?しかし、恩寵や実践を通じてその物語から解き放たれたとき、自己さえも幻の構築物であると悟ることができるのです。重要なのは、悪を非現実的なものとして扱うべきだということではありません。悪の隠れた前提や論理を受け入れるのではなく、物語のレベルで悪に対処しなければならないということです。もし受け入れることをすれば、私たちは悪の創造物になってしまいます。物語のレベルで悪に対処し、悪が住まう神話を言葉や行動で解体すれば、私たちは打ち負かされることなく勝利することができるのです。次章以降では、物語のレベルで取り組むこと、つまり古いものを壊し、新しいものを語ることについてより詳しく述べていきます。


 
 私たちは数々のパラドックスを考慮してきました。「すべて大丈夫だ」というのは、すべてがひどく間違っていることに気づいているからだということ。悪魔の最大の武器は、悪魔というものが存在するという考えであるということ。悪は悪の認識から生まれるということ。本章の悪の存在論に残された未解決の糸を結ぶために、もうひとつパラドックスを積み上げなければなりません。悪は「現実」と物語の両方であるだけでなく、「現実」もまた現実でありながら物語でもあるのです。「科学」の章で見たように、私たちが使う現実という言葉には、非常に疑わしい客観的な宇宙という仮定が内包されているのです。「現実は現実ではない」と言うことさえできません。なぜなら、そうすることで、現実が現実であるかそうでないかという客観的な背景を持ち込むことになるからです。「あなたにとって現実はリアルで、私にとってはリアルではないとしたらどうでしょうか?」と問うこともできますが、その場合でも「である」という言葉が同じことを孕んでいます。とはいうものの、客観主義の習性を少し手放し、「分離の物語」では悪が存在し、「インタービーイングの物語」では悪が存在しないことがあり得るかどうかを考察していただきたいと思います。ある物語では悪が存在し、ある物語では悪が存在しないという意味ではありません。物語と物語の間を移行する際に、私たちはある現実とある現実の間を移行するということを意味しているのです。その移行をどのように成すのでしょうか?それがこの本全体の主題です。


 主体と客体という絶対的な区分を問うことは、悪の体験が自分自身の中で何を露わにするのかについてやどのようなあり方が絶対的な悪を信じたり信じなかったりへと引き寄せるのかを思案することにつながります。人間の姿であれ、変性意識の中であれ、容赦のない悪意ある力に個人的に遭遇したことがあるでしょうか?もしあれば、その体験が引き起こす無力な怒り、グリーフ、恐怖の圧倒的に強烈な感情を知っているはずです。「被害者」の元型の中へと足を踏み入れ、無力となり、無慈悲な力に翻弄されるのです。この体験があるまでは、私たち一人ひとりの中にこのような状態が潜在的にあると知ることは不可能でしょう。その体験は自己発見の手段であり、人を非常に暗く、近づきがたい実存の片隅へといざなうのです。そういうわけでそれは一種の薬であり、過酷な薬であることは確かですが、原初的な傷を自覚の光へと招き、癒していくためにはおそらく必要なものなのです。私はサイコパスやその他の悪意ある力の犠牲になった人たちに共通するものを知りたいと思っています。彼らはただの無作為の被害者なのか、それともその経験を引き寄せる何かが彼らの中にあるのでしょうか?


 シャーマニックワークと呼ばれるものを行う人たちは、人々に取り付く「存在」について同じように問うかもしれません。これは恣意的で捕食的な力であり、不運な人たちに襲いかかる非人間的な自然の力のようなものなのでしょうか?それとも、自らに取り付く存在の構成を完璧に補完しているエネルギー的な穴、欠落した部分、傷なのでしょうか?その場合には、その存在は宿主と融合して共生的な全体となり、サービスを提供しているのかもしれません。その存在は本当に分離した存在なのでしょうか、それとも精神の中の統合されていない一部なのでしょうか?これらの二つのカテゴリーに意味のある違いさえあるのでしょうか?そもそも自己とは何なのでしょうか?もし私たちがインタービーイング、つまり私たちの関係性の総体であるのならば、異質の他者化された”悪”の存在は非常に大きな問題となります。


 悪がより大きな錬金術的なダンスの一部であるという考えは、悪を征服するために善の側で戦うという通常の物語を大幅に複雑にします。その代わりに私たちが遭遇する悪を、私たち自身の中に隠れた何かが外側に表れたイメージとして見るのかもしれません。対照的に、絶対的で無慈悲な悪の概念は、無作為に破壊をもたらすニュートン的宇宙の中の非人間的で無慈悲な力とよく似ています。またダーウィン的な自然淘汰における、無慈悲に競争する遺伝子によってコントロールされているロボットにも似ています。これらの両方は古い物語の重要な支柱です。悪もまた同様であるということは当然ではないでしょうか?


 夢やサイケデリック体験、そして目覚めている意識下でのいくつかの体験が、私が悪意ある力との対決に臨むたびに、それを補完する何かが私の中にあるということを私に見せました。実際の人間の場合は、私は二つの方向に引っ張られました。相手が完全に悪であるという解釈と相手のぞっとするような行動にはもっと悪意のない説明があるという解釈、あるいはたぶん私自身の過失を含む説明があるという解釈です。最善を尽くしたのにも関わらず、それを確信を持って知ることはいつも不可能でした。それは単なる知的好奇心の問題ではありません。あらかじめの手を打つべきなのか?その人を執念深い敵として扱うべきなのか?一見融和的に見える動きを単なる策略と解釈するべきなのか?私の責任を共有する意識は加害者側からの介入を許す場所となるので、私は自分を守るための独善的な態度をとるべきだと暗示しているのか?どうすれば確信が持てるのでしょうか?

 これらの疑問に答えることは、惑星規模の重要な問題です。なぜなら、これらの疑問はパレスチナ人とイスラエル人、スンニ派とシーア派、ヒンズー教徒とイスラム教徒が、戦争と平和のどちらを選ぶかを決めるために答えなければならないものと同じだからです。通常、このような問いを決着させる揺るぎない証拠を発見することは不可能です。むしろ、どのような答えを選ぼうとも、それが真実になってしまうことが多いようです。その決定がなされる前、迫害者はまるで量子的な状態の重ね合わせかのようです。私たちが検討するそれぞれの物語には、相手の役割があります。物語を選ぶことで、私たちは彼らの役割を選んでいるのです。


 さて次にさらなる複雑さについて取り上げます。一例としては、家庭内虐待の状況や依存症患者への対処のように、違反者に有利な解釈を与え続けることがナイーブで、逆効果となる状況はどうでしょうか?第二に、相手が平和的な役割への招きを受け入れない状況、相手が「インタービーイングの物語」に加わることを拒否するとしたらどうでしょうか?第三に、ある心理状態を持つ人たちが迫害されたり虐待されたりした経験を自ら引き寄せ、悪と遭遇することは発達過程の一部であると言うのは結構なことですが、親に虐待された幼児たちや大量虐殺にさらされた全人口についてそう言うのは、実に冷淡で傲慢に思えます。

 読者に私が明白なことを見落としていないことを確信してもらうために、これらについて述べています。このページで、これらの点や他の点について徹底的な回答を試みるつもりはありません。まずはじめに、「彼は悪だ」という物語を拒絶することとその相手の物語を受け入れることを区別することが重要です。私はここで屈服について話しているのではありません。「インタービーイングの物語」の中に立ち、愛情を持って、思いやりを持って、アルコール依存症患者に車を貸すことや妻虐待者にもう一度チャンスを与えることを拒否することは確かに可能なのです。

 二つ目の点については、たとえあなたがガンジーのように力強く新しい物語への招待状を開いているとしても、相手がその物語に足を踏み入れることを拒否する可能性は確かにあります。その場合には、相手をあなたの世界から立ち退かせる別の状況が生じるでしょう。剣を取るものは剣によって滅びるのです。ですから、私たち自身が殺人犯となることを引き受ける必要はなありません。老子は警告します。「常に死刑執行人はいる。その機能を引き継ぐとすれば、木彫りの名人の代わりをしようとするようなものだ。あなたは自分の手をおそらく切ることになるだろう。」そして聖書には「主が言われる。復讐はわたしのすることである。」(すなわち、復讐はあなたのものではなく、唯一神のものである)とあります。

 繰り返しになりますが、戦うべきときがないとは言っていません。この世界では、すべてのものそれぞれに居場所があります。牡鹿は狼に抵抗し、時には逃げおおせることもあるのです。ただ、私たちのイデオロギーのせいで、戦うこと、苦闘、戦争というメンタリティを本来の領域を遥かに超えて適用してしまっているだけなのです。私は、どのような場合に戦うことが”正当化”されるかを識別する原則を明らかにしようとは試みません。原則に基づいて決定することは古い物語の一部であり、しかも原則はほとんどどんな残虐行為の正当化にも簡単にねじ曲げられるのです。ただ、憎しみや自己憐憫を伴う戦いであれば、それはおそらく本来の領域外であろうということだけは申し上げておきます。


 第三のポイントは、この世界の中にある悪と苦しみの目的についての神学上の古くからの疑問を投げかけるものです。なぜ罪のない人たちが苦しむのでしょうか?以下は、『人類の上昇』(訳註:チャールズの著書)の「弔辞と贖罪」の中にある、この問いに対する長い議論の一節です。オンライン上でこのセクション全体(および本全体)を読むことができます。

私たちはよく不幸は過去の悪事に対する罰のようなものだと考えますが、これは東西を問わず宗教思想に通底するテーマです。東洋では、現在の苦しみは過去の悪行によって生じた負のカルマを表しているという考えであり、西洋では、ヤハウェがソドムとゴモラの都市をその罪のために打ち倒し、ニネベをその”邪悪さ”のために脅すというイメージがあります。しかし、自明の事実は最も苦しむのは罪のない者たちであることが多いということが、前世から原罪、未来での再生から天国と地獄まであらゆる種類の神学的曲解を要求するのです。他にどうやって小児がん病棟にいる可愛らしい無邪気な赤ちゃんたちのことを説明できるでしょうか?盲目的で、無慈悲で、無目的な偶然に頼らないためには、犠牲者の無実を説明する別の方法が必要なのです。おそらく彼らは偉大な魂たちであり、我々の文明が生み出してきた罪のない犠牲者という巨大な必要性に応じているのです。「私が行くよ」彼らは言うのです。「私は十分に大きい。この体験をする準備はできています。」と。

 人類は何千年もの間「分離の旅」を続けてきており、その領域のあらゆるクレバスは探求されなければなりません。私たちが悪と呼ぶものの加害者と被害者は、分離の最果ての地まで探索してきました。悪を分離として定義することさえできるかもしれません。それは、人、国家、自然の完全なる他者化であることはもちろん、自身から切り離され、馴染みがない宇宙に投げ出されたことの当然の帰結なのです。ワークショップでのエクササイズでの「私は何かを殺したかった。」を思い出してください。”悪”というレッテルそれ自体が、他者への深い差別の一形態であるということが重大な意味を持っています。これが、悪という概念が悪という現象の一部であり一群であるということを理解するもうひとつの手段です。

 幸い、「分離」の領域の極限を探索してきた私たちは、帰路につく可能性を今手にしているのです。もし悪が、直接的な経験を通じて、あるいは根源的な存在論的カテゴリーとして、あなたの「世界の物語」の一部であるのならば、その物語がどのようにあなたの役に立っているのか、そしてあなたをそれに引きつける傷が何なのかを探ってみるのもいいかもしれません。なぜなら、繰り返しになりますが悪が実在するかどうかは証拠や論理では解決できないからです。私は状況主義心理学から、サイコパシーから、形而上学から、そして数々の逸話から、広範囲の議論を展開してきましたが、おそらくそれぞれの論点に反論することは可能でしょうし、私はその反論に無限に反論することができるでしょう。あなたはどのように自分の物語を選んでいくでしょうか?他の人たちがどのように自分たちの物語を選ぶかに、どのようにあなたは影響を与えるのでしょうか?悪の救済と物語の崩壊の最後の例としてクリスチャン・ベセルセンの物語をあなたに残します。



 私の友人シンシア・ジャーズがクリスチャン・ベセルセンに出会ったのは、彼女が1990年代に凄惨な内戦に見舞われたリベリアで平和活動をしていたときでした。レオパード将軍の名で知られた反乱軍の指導者であったベセルセンは、虐殺、子供兵士、拷問の渦中で悪名を馳せました。もし人間が悪であれとすれば、それは彼のことだったのでしょう。彼の言葉を借りれば、彼は”良心のない”人間でした。やがて戦争は終わり、ベセルソンの飯の種も絶たれました。殺しのスキル以外は何も持ち合わせていなかったのです。彼の陰惨なサービスに需要があるかもしれない最も近い戦争地のコートジボワールに彼は行くことにしました。その途中、車が泥にはまってしまったのです。同じ時間帯に、同じ道路で別の車が泥沼にはまるとは誰が想像できたでしょうか?しかもその車には「エブリデイ・ガンジーズ」という平和団体のメンバーが乗っているとは誰が想像できたでしょうか?彼らの会話に興味をそそられた彼は、元反乱軍の将軍だと名乗りました。ベセルセンは、彼らが自分を中傷し、もしかしたら殴りつけてくるかもしれないと思っていました。しかし驚いたことに、そのグループは彼の周りに集まり、彼をハグし、愛していると伝えたのです。ベセルセンは彼らの仲間に加わり、平和のために人生を捧げることを決意したのです。


 この惑星全体に奇跡が起こることを大いに求めていきましょう。それが私たちに与えてくれる、より大きな可能性への招きを受け入れましょう。




29章前半 悪                  第30章 物語



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大野誠士
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