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「私たちの心が実現できると知っているもっと美しい世界」 真実 (第33章)

本の内容紹介、著者チャールズ・アイゼンシュタインについてと目次。

 通常、私たちが「インタービーイングの物語」の中に立てているのは、単に意志によるものではありません。それは「分離」による数々の傷を癒し、その習性を変化させ、再会という思いがけない領域を発見していく長いプロセスなのです。あるときは突然、あるときは少しずつ、あるときは努力によって、あるときは恩寵によって、あるときは誕生のように、あるときは死のように、あるときは痛みを伴い、あるときは栄光に満ちていて、それは深遠な変容のプロセスなのです。私たちは、他の人たちや社会一般の中にあるストーリーの移行のためのエージェントとして働きかけるにあたり、そのことを心に留めておかなければならないのです。


 「私はどのような物語の中に立とうか?」という問いは、明らかなパラドックスを私たちにもたらしています。「新しい物語」の一部は、物語そのものへの一種のメタ認知なのです。私たちは新しい物語に入ろうとしているのでしょうか、それとも完全に物語の外側に立とうとしているのでしょうか?ポストモダニストたちは、物語の外側に立つことは不可能だと言うでしょう。デリダが言うように、「本文の外側など存在しない」のです。彼らは、私たちの社会構築の外側に真実や現実は存在しないと言うでしょう。私はこの立場には同意しませんが、その歴史的瞬間においては、真理への王道を提供すると称する科学主義や合理主義の自負に対して、有益な解毒剤を提供したのだと思います。私たち人間は、意味をつくる者や地図をつくる者であり、ある地図を次の地図へと交換し、あたかもそれが地図ではなく領域であるかのようにして、その中でさまよっているのです。ポストモダニズムは、そこに領域があるのかさえに疑問を呈することで私たちをその罠から解放しました。「在る (there is)」という言葉でさえ、現実の性質についてのデカルト的な仮定を伴っていることを考えれば、実に捉え難い問いかけです。つまり、言葉そのものが地図の一部なのです。


 しかし、これは地図の背後に領域がないということを意味するものではありません。それは概念的な思考ではそこには辿り着けないということを意味しているだけなのです。物語から創りだされているその世界が物語そのものなのです。それぞれの地図は、何層にも重なり、別の地図の地図になっています。私たちはその一つひとつを解読し、それがどのように創られ、どのようなパワーを供給するのかの理解を広げていきますが、どれほどの層を分け入ろうとも、その領域へと辿り着くことはありません。だからと言って、それがそこにないということを意味するのではありません。数を数えることによって無限大に到達することができないのと同じように、ユートピアがさらにもう一つのテクノロジーを完成させることによって創られるものではないのと同じように、天国が空に向かって塔を建てることによって到達できるわけではないように、それはこの方法ではただ見つけられないということなのです。真実も同様に、次から次のものへと進行する物語の外側にあります。それは遠くにあるということではなく、それは近くにあるということ、近いよりもさらに近いということを意味します。空は地面が終わったところからはじまっています。私たちがすでにそこにいるということに気がつくために、ただ異なった目で見る必要があるということなのです。ユートピアとは、集合的な認識のシフトの先にあるものなのです。豊かさは私たちの周り中にあるのです。私たちの塔建設への努力がそれを見えなくさせ、私たちの視線は永遠に空へと向けられ、この地球、この感覚、この瞬間から逃れることを永遠に追い求めているのです。


 ですから、新しい物語は物語を越えた場所、物語と物語との間にある場所について語るのですが、その場所へ私たちを連れていくことはしません。それは、私たちの物語を真実の中に根付かせるために、私たちがこれまで以上に頻繁に触れる必要のある場所なのです。私たちが人間である限り、私たちは常に物語を創造し、それらの物語を演じます。物事の意味についての合意を形成し、それらの合意をシンボルで結びつけ、物語の中へと埋め込むのです。そうやって、私たちは共通のビジョンに向かって人間の活動を協調させていくのです。


 新しい物語は、物語に先んずるものに私たちをつなげ、意味に先んずるところにある虚空からパワーを引き出すための、事物がただありのままである空間を与えてくれるのです。物語は真実を運ぶことができますが、それは真実ではないのです。語ることのできるタオは、本当のタオではないのです。「真実は物語から出たり入ったりするものなのですよね。かつて真実だったことが、もはや真実ではなくなるのです。その水は別の泉から湧き上がってきたのです。」とアーシュラ・K・ル=グウィンは書いています。「科学的な方法」が定めているような、その物語が実験結果に合致しているかどうかを検証することによってではなくとも、私たちはときにこの真実を認識することができるのです。その試みは、客観性と呼ばれる世界の物語からそれ自体を引き出すものであり、いつでも物語を内包する目に見えない選択(どのような質問を問いかけることが重要なのか?どのような理論を検証するのか?結果を正当にするために、どのような権威構造を持ち出すのか?)の産物であることが常なのです。


 では、真実を私たちはどこに見出すのでしょうか?身体の中に、森の中に、水の中に、土の中に見つけるのです。音楽、ダンス、ときには詩の中にもあります。赤ちゃんの表情の中に、マスクの奥の大人の表情の中にも見つけることができます。私たちが見つめ合ったときに、互いの目の中にそれを見つけるのです。真実を抱擁の中に見つけます。私たちが抱擁を感じるときに、存在と存在とでの信じがたいほどの親密な行為になるのです。笑いや嗚咽の中にも、話し言葉の背後にある声の中にも、それは見出されるのです。私たちは真実をおとぎ話や神話や、フィクションだとしても私たちが語る物語の中に見つけるのです。ときに御話に詳細を加えることが、真実を伝える手段としてのそれをより大きいものにします。私たちは沈黙と静寂の中に真実を見出すのです。私たちは痛みや喪失の中にそれを見つけるのです。私たちは誕生と死の中にそれを見出すのです。


 クリスチャンの読者は、聖書の中に真実は見つけられると言うかもしれません。そうですね。しかし、聖書の文字通りの解釈の中には見つけられないのです。真実は言葉の裏を照らす光源として輝いています。その言葉だけでは、他のどのような言葉よりもさらに真実であるということはなく、あらゆる種類の恐怖のために使うことができる(そして使われてきました)のです。道教は、”書物という障害”のこと、つまり言葉を通して、それらの言葉が生まれた場所まで旅をすることではなくて、言葉そのものの中に真実を見出そうとすることにとらわれているときのことを語っています。


 このように、私たちはいつでも物語の中で生きていますが、私たちの物語を真実の中に何度も根付かせる必要があります。真実の中に物語を根付かせることは物語の中へと私たちが深く迷い込むことを防ぐことになります。今日のように、子どもたちが生きたまま焼かれることが”巻き添え被害”となり、地球上の生物学上の生命に必要なものが”資源”となってしまうところまでの迷いです。これらは、真実の瞬間に不安定な状態になる種類の妄想なのです。私が出会ったブータンの僧侶によれば、ブータンの国王はほとんどの時間を農村で過ごすように気をつけているそうです。「首都に居過ぎると、懸命な判断ができなくなる。」と国王は言っているのです。「分離」による人工物に囲まれていると、それらが属している物語を内面化しやすくなります。そうして、無意識のうちに、私たちはその物語から生きるようになるのです。


 沈黙、静寂、土、水、身体、目、声、歌、誕生、死、痛み、喪失。真実を見つけることができる場所として私が挙げたすべての場所を取りまとめる一つのことに気づいてみてください。それらすべてにおいて、実際に起こっていることとは真実が私たちを見つけようとしているということなのです。それはギフトとしてやってきます。それこそが、「科学的な方法」と人間の創造の外側にある絶対的な真理についての宗教的な教えの両方が正しい点なのです。どちらも謙虚さを体現しています。これと同じ謙虚さの状態の中で、私たちは物語をしっかり根付かせるための真実を得ることができるのです。



 物語をしっかり根付かせる真実のために、物語を越えたところに到達する必要があるということは、もっと美しい世界を創造するために、オフィスビルの部屋の中で働く頭の良い男たちができることには限りがあるということを意味しているのです(私もその一人だろうか?黒幕の男には注意を払わないように!)それ以上にもっと重要なのは、私たちに真実の体験を与えてくれる存在たち(感覚、土壌、身体、声など)なのです。それゆえ、世界を救おうと急ぐあまり、私たちが時間を割けていないものが政治的にもエコロジー的にも必要とされるものなのです。
 


 真実は私たちの算段を超えているのです。それがギフトとしてもたらされるということは、チェンジメーカーとしての完全なパワーが私たちに伝授されるためには、何かが私たちに起こらなければならないということを意味しています。私たちが個人のレベルで喪失、挫折、痛みを経験するにつれて、ヒーラーやチェンジメーカーとしての私たちの奮闘は進化していくのです。「分離の物語」に由来する、自分自身個人の中にあるその下部区域が溶けていくときに、人は初めてその物語がどのようなものであるかを見ることができるのです。


 それが起こるたびに(そしてそれは、「分離」というテーマにバリエーションがある限り、何度でも起こり得ます)、私たちはこれまで言及してきた聖なる空間、物語と物語の間の空間に入っていくのです。喪失や挫折なくしてや、祈りや瞑想や自然の中でのひとりの時間を通して、私たちは意図的にそこに入ることができると思うかもしれません。そうなのかもしれませんが、そのような実践へと何があなたを導いたのでしょうか?その中で育ったのではないのであれば、おそらく、このようなことをする人たちがいない普通の世界からあなたを外へと押し出す何かがあなたに起こったのでしょう。


 さらに、霊的な実践が効き目を発揮する一つの道筋は、古い考え方や自己イメージ、「自己と世界についての物語」を解きほぐすことなのです。この解きほぐしは、一種の崩壊、一種の喪失、一種の死でさえあります。実践、離婚、病気、臨死体験を通じてなど、物語と物語の間の空間への旅がどのような形で起こるにせよ、私たちは皆同じ旅の途上にいるのです。

 ちょうど私たちの文明が物語と物語の移行の中にあるように、わたしたちの多くもまた移行の中にいます。私たちが自分の人生について自分自身に語っているさまざまな物語を見るときに、あるパターンが明らかになります。そしてそのパターンの中から、二つ(あるいはそれ以上)の優勢なテーマを見分けることができるかもしれません。ひとつは自分の人生の”古い物語”を象徴し、もうひとつは”新しい物語”です。前者は、生まれながらにして出遭うさまざまな傷やこの文化の一員として成長していくことに関連することがほとんどです。二つ目の物語は、その人がこれからどこへ向かおうとしているのかを表していて、これらの傷の癒しに沿ったものなのです。

 

 「何が真実ですか?」と呼ばれるプロセスがあります。第一に私たちの内側に目に見えない形で潜み住み込んでいるストーリーたちを、それらの力を弱めるために私たちの知覚のフィールドへと連れ出し、第二に「何が真実ですか?」というマントラを通じて、そのストーリーの持ち主を物語と物語の間の空間、つまり真実が手に届く空間へと連れていくことが意図されているものです。このプロセスは、2010年に素晴らしいソーシャル・インベンターであるビル・カースと共同で催したリトリートに端を発し、それ以来相当に進化してきました。ここでは、読者が自身の教えや実践に適応させることができる、かなりオリジナルなバージョンを紹介します。


 はじめに、その場にいる全員が、自分が直面している状況や選択、疑い、不確実なこと、つまり”どのように考えればいいのかわからない”、”どのように決めたらいいのかわからない”何かについてを見つけます。一枚の紙に、その状況のありのままの事実を書き、それに対する2つの解釈を”物語 #1"と”物語 #2" と題して書き出します。これらの物語は、その状況が何を意味するのか、その状況にまつわる仮説、関係する人たちについて何を語っているのかを説明するものです。

 
 私自身の例を挙げてみます。『人類の上昇』の第一稿を書き終えたとき、私は出版社を探しはじめました。長い年月をかけて書き上げたこの本の美しさと深みの虜になり、期待に胸を膨らませながら、さまざまな出版社やエージェントにふさわしい売り込みのパケットを送ったのです。どうなったかはきっと想像できるでしょう。どの出版社も微塵の興味も示さなかったのです。どのエージェントもそれを引き受けたがりませんでした。(私にはそう見える)この本の論旨の深みと文節の美しさに魅了されない人がいるのでしょうか?そうなんです、その相対的な影響力は満ち欠けしていましたが、私は同時に私を住まいとする二つの説明を手にしていたのです。


 ストーリー No. 1は次のようなものでした。「チャールズ、現実を直視しろよ。彼らがこの本を却下する理由は単純にこの本が大して良くないからなんだ。そんな野心的なメタ歴史物語を書こうなんて、君は何様のつもりなんだ?君は著述したどの分野についても博士号を持っていないじゃないか。君はアマチュアであり、素人愛好家なんだ。君が読んだ本の中に君の洞察が掲載されていない理由は、それらがあまりにも些細で幼稚すぎて、わざわざ出版する人がいないからなんだ。たぶん、君は大学院に戻り、学費を払い、いつの日にか、詭弁にまみれた反抗心で、君が都合よく拒絶している文明にささやかな貢献をする資格を得るべきなんじゃないか。私たちの社会のがすべて間違っているのではなくて、君がその社会に満足に対処できていないだけなんだよ。」


 それから、ストーリー No. 2 はこのようなものでした。「彼らがこの本を拒むのは、その本があまりにも独創的でユニークであるため、それを分類するカテゴリーも、それを見る目さえも持ち合わせていないからなのだ。私たちの文明を定義づけるイデオロギーに深く挑戦するような本が、そのイデオロギーの上に築かれた機構によって拒絶されることは予想できることである。確立された学問分野の外から来たゼネラリストだけが、このような本を書くことができるのだ。私たちの社会の権力構造にあなたの正当な居場所がないことが、この本を実現させているのと同時に、すぐに受け入れられない理由なのだ。」


 これらのストーリーには特筆すべきいくつかの特徴があります。第一に、理性や証拠に基づいて両者を見分けることができないということです。どちらも事実に合致しています。第二に、いずれのストーリーも感情的にニュートラルな知的構成物ではないことは明らかです。それぞれのストーリーは、感情の状態だけではなく、人生の物語や世界についての信念群とも結びついています。第三に、それぞれのストーリーは、ごく自然に異なる行動指針を生み出します。それは当然のことです。なぜなら、物語には役割が含まれており、私たちが自分の人生について語る物語は、私たち自身が演じる役割を規定するものだからです。

 

 各自が状況とそれに関する2つのストーリーを書き終えた後、全員に2人1組になってもらいます。各ペアには話し手と質問者がいます。話し手は自分が書いたことを、理想的には1、2分で説明します。たいていの話の要点を伝えるためには、それぐらいの時間しかかかりません。


 話し手に向き合っている聴き手は、「何が真実ですか?」と尋ねます。話し手は、質問者の深い傾聴の中で真実だと感じられることを話すことで返答します。話し手は、「ストーリー No. 1が真実です」あるいは「ストーリー No. 2 が真実です」と言うかもしれないですし、「実は、真実となるのはこの第三のことになるのだと思います…」もしくは「ストーリー No. 2が真実であることを願いたいですが、一つ目のストーリーが真実であることを恐れています」と言うかもしれません。

 
 
 答えの後、質問者「他には何が真実ですか?」とフォローアップします。もしくは、答えが単にさらなるストーリーだった場合には、「そうですね。そして何が真実ですか?」とたぶんフォローアップするでしょう。他に有用な質問は、「もしそれが真実であるのならば、他には何が真実ですか?」や「たった今何が真実ですか?」です。このプロセスを進めるもう一つのやり方は、単純に「何が真実ですか?」という最初の質問を何度も繰り返すことです。


 これはとらえがたく、予測不可能で、非常に直感的なプロセスです。真実が出現する空間を創りだすというのがこれのアイデアです。それはすぐに起こるかもしれないですし、数分かかるかもしれません。ある時点で、話し手と質問者は、出てきたがっていた真実が出てきたと感じるでしょう。話し手はおそらくイエスと答えるでしょうし、もしくは「実はさらにもう一つのことがあって…」とたぶん言うのかもしれません。


 多くの場合、出現した真実は、その問題についての話し手の本音であったり、その人が疑いようもなくわかっていることであったりします。それが出てくるとき、そこには解放感があり、ときにはため息のような息の吐き出しが伴います。それに至るまでに、話し手はミニ・クライシスを経験し、状況を知的に考えることで回避しようと試みるかもしれません。質問者の仕事は、このごまかしを迂回して、「何が真実ですか?」に何度も立ち戻ることです。隠されていた真実が顕れるとき、それはたいていの場合、まさに疑う余地のないものであり、逆説的ですが、いくらか意外なもの、つまり「私の目の前にありながら私には見えていなかったもの」であることが多いのです。


 このプロセスから何が生まれるかをよりよく味わってもらうために、私が出現するところを目にした真実の例を挙げてみます。

  • 「ばかなことを言っている場合じゃない。私はもうすでに選択したのだ!この正当化はすべて、自分に許可を与えようとするただの私の流儀にすぎないんだ。」

  • 「そうだ、本当はもうどうでもいんだ。気にかけるべきだと自分に言い聞かせてきたけれど、正直なところもう気にかけてなんかいないんだ。」

  • 「真実は、私が人がどのように思われるかを怖がっているということです。」

  • 「真実は、貯蓄を失うことへの恐怖を本当に自分が恐れていることの隠れ蓑にしているということです。その恐れは私が自分が人生を無駄にしているということなんです。

 もしも話し手が真実を避け続けていて、もしそれがわかっているのであれば、質問者は「…は真実なのですか?」の類の質問を提示できるかもしれません。


 このプロセスにおける主な”テクノロジー”は、一部の人たちが「場をホールドする」と呼ぶものです。私たちの物語と物語の間の裂け目から、ギフトとして真実はやってきます。それは私たちがうかがい知れるものではなく、むしろそれを理解しようとする試みに関わらず、もたらされるものなのです。それは啓示なのです。物語とそれに付随する感情が私たちを引き込もうとする中、その啓示のためのスペースを確保するためには、多くの忍耐、さらには不屈の精神が必要なのかもしれません。


 一度真実が明らかになれば、あとは何もすることはありません。プロセスは終了し、しばしの沈黙の後、話し手と質問者が役割を交代するのです。 


 このようなプロセスの中には、その人が発見した真実に基づいて、話し手に何らかの宣言やコミットメントを促すものもあります。私はそれを勧めません。真実がそれ自身のパワーを働かせるからです。このような真実の現れの後、かつては考えられなかったような行動が当たり前になり、絶望的に不透明だった状況が透明になり、苦悩に満ちた内面での論争は、それを手放す苦闘もなく、自ずと消えていくのです。この「何が真実なのですか?」というプロセスは、新しい何かをアテンションから成るフィールドに、つまり私たち自身にもたらすのです。実際、その「何が真実ですか?」という問いの背後には、別の問いが潜んでいるのです。そのもう一つの問いとは、「私は何者なのか?」なのです。


 自然、死、喪失、沈黙などの体験も同様です。それらがもたらす真実は、私たちを変え、物語からの支配力を緩めます。何もする必要もなくです。それにもかかわらず、多くのことが起こるのです。


 私は、人生そのものが私たち一人ひとりと、ある種の「何が真実なのですか?」という対話をしているということに気づきました。体験は、私たちが生きているどのような物語にも侵入し、私たちを物語から連れ出し真実へと引き戻し、私たちの物語が置き去りにしてきた、自分たち自身の一部を再発見するようにと誘うのです。そして、人生は容赦なく質問を投げかけてくるのです。


 個人のレベルと、社会、スピリチュアル、政治の活動のレベルの両方で、人生が私たちにしてくれることは、私たちが他人の人生の一部として、彼らのためにできることなのです。個人のレベルでは、私たちが頻繁に受け取る非難、ジャッジメント、憤り、優越感などの物語を強化する、人々がつくりだすドラマへの参加の誘いを断ることができるのです。ある友人から元恋人についての愚痴の電話をかけてきます。「それでそれから彼は、私が小走り出てきてブリーフケースを持ってくるのを、車の中でただ待っているような神経の持ち主だったのよ。」あなたは非難に加わり、「彼はひどい人で、私はいい人でしょ」のストーリーを肯定することになっているのです。そうする代わりに、あなたはただその感情に名前をつけ、アテンションを指し向けることで、(知らないふりをして)「何が真実ですか?」を実行するかもしれません。あなたの友人は、彼女のストーリーに加わることを拒否したあなたに苛立つかもしれません。ときに、これは裏切りとみなされることもあります。実際、物語から離れることで、その物語を共に住まいとしていた友人たちからも離れることになるかもしれません。これが、物語と物語の空間を特徴づける孤独のもう一つの理由なのです。


 オールドノーマルからニューノーマルへの旅は、私たちの多くにとって孤独の旅路でした。内側と外側からの声は、私たちは狂っている、無責任だ、非現実的だ、世間知らずだと言っていたのです。私たちは激しく波立つ海の中でもがく水泳選手のようなもので、泳ぎ続けられるためだけの空気を時折必死に吸い込むだけだったのです。その空気こそが真実なのです。今や、私たちはもはや孤独ではありません。私たちにはお互いを支え合う仲間がいるのです。確かに私は、英雄的な個人的努力や勇気や不屈の努力によって、自分の本に関する自信喪失から浮かび上がれたわけではありません。鍵となる局面での大きな意味を持つ助けのおかげで、私は新しい物語の中に立っているのです。友人たちや味方である人たちは、私が力強くあるときに私が彼らを支えるように、私が弱っているときに私を支えてくれるのです。


 サポートがなければ、たとえ宇宙的なワンネスの体験をしたとしても、自分の生活、仕事、結婚生活、人間関係に戻れば、こうした古い構造があなたをそれらに再び順応するようにと引き戻すのです。


 信念は社会的な現象なのです。まれな例外(『正気を失うこと』の章のフランクのような)を除けば、私たちは周囲からの増援なくして信念を貫くことはできないのです。一般の社会的な合意から大きく逸脱した信念を維持するのは特に難しく、通常はカルトのようなある種の聖域を必要とし、そこでは逸脱した信念が常に肯定され、社会のそれ以外の部分との交流は制限されます。しかし、同様のことが、さまざまなスピリチュアル・グループやインテンショナル・コミュニティ、さらには私が講演で話すカンファレンスについても言えるかもしれません。それらは、新しい物語のかよわくも芽生えはじめた信念が成長するための、一種の保育器を提供しているのです。そこでは、外の信念という厳しい気候からの猛攻撃から彼らを持続させる根っこの床を育むことができるのです。


 そのような保育器を見つけるのには時間がかかるかもしれません。つい最近、従来の世界観から抜け出した人は、その世界観を拒絶することでの孤独を感じているかもしれません。古くからの友人や子供時代の直感としてその人が認識する新しい信念が内側では湧き上がりますが、他の誰かによってその信念がはっきりと表現されなければ、その信念を安定化することはできないのです。聖歌隊に伝道者を迎えることが、聖歌隊の大合唱を聴くことができるようにために非常に重要なのはこれが理由なのです。ときにある人が、まだ誰もがはっきりと表現したことのない、まったく新しい「インタービーイングの物語」の断片を受け取ることがあります。それのための伝道者も聖歌隊もまだいないものです。しかし、そのような場合でも、その新しい物語がクリティカルマスに達するにつれて、より多くの気心の合う人たちが、もっともっと多くの私たちが待っているのです。



 私たちの時代にそれが起こっているのです。確かに、「分離」の上に築かれた機構はかつてないほどに大きく強固に見えますが、その基盤は崩れています。私たちのシステムに君臨するイデオロギーと、その価値、意味、重要性を本当に信じている人たちは、ますます少なくなってきています。組織全体が、個人的にはそのメンバーの誰一人として賛同しないような政策を採用しているのです。使い古した例えを使うのなら、ベルリンの壁が解体されるわずか一ヶ月前に、思慮深い観察者たちの誰もが、そのようなことがすぐに起こるとは予測していなかったのです。東ドイツの秘密警察がどれほど強力か確かめてみてください!しかし、人々の知覚の下部構造は長い間侵食され続けていたのです。


 そして私たちの知覚もそうなのです。私は今、新しい物語がクリティカルマスに達しようしていると述べました。しかし、それは臨界点に達したのでしょうか?到達するのでしょうか?たぶん、まだそこまでには至っていないのでしょう。もしかしたら、今がちょうど転換点、均衡の瞬間なのかもしれません。おそらく、そのバランスを揺り動かすには、もう一人の人がインタービーイングの中に一歩足を踏み出すことでの重みが必要なのでしょう。もしかしたら、その人はあなたなのかもしれないのです。



第32章 奇跡                  第34章 意識


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