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「私たちの心が実現できると知っているもっと美しい世界」 意識 (第34章)

本の内容紹介、著者チャールズ・アイゼンシュタインについてと目次。

 物語のレベルでの働きかけは、もっと美しい世界を創造するための鍵であるだけではなく、霊的な修行と常に呼ばれてきたものと同一のものです。言うまでもなくそうなのです。なぜなら、私たちの「世界の物語」の根底には、他の人たちから、自然から、ガイアから、そして神と私たちが呼ぶかもしれないものから分離しているという思い違いを伴った「自己の物語」が存在しているからです。


 私は『聖なる経済学』の中で、私たちが悟りという単一の精神的な目標を追い求めるべきなのだという考えに疑問を呈しました。実際に、そのようなものがひとつのものとして存在するという考えさえにもです。その相似として、他のすべての恵みがそこから生まれるとされる唯一のもの、つまりお金があまりにも近しいのです。お金があらゆるニーズを満たすと喧伝されている社会では、お金はあらゆる状況に使える手段であるだけではなく、すべての人に共通する目的にもなるのです。もちろん、経済的な豊かさを手に入れると、それが実際にはあらゆるニーズを満たすことはできないことに気づきます。例えば、それは親密さ、つながり、愛や意味のニーズを満たすことはできないのです。経済的に豊かであってもなくても、私たちは皆このことを知っています。しかし、私たちは一つのことを達成することが他のすべてのものへとつながるという考えに疑問を呈するよりも、その一つのことをお金から他のことへと置き換えているのです。精神と物質の分離という教義の恩を受け、私たちはこの別の何かを、お金とは異なる”スピリチュアル”なものだとみなしています。ある人たちはそれを神と呼び、ある人たちはそれを悟りと呼んでいますが、無限の犠牲を捧げなければならない単一の目標、つまり存在する最も重要なものを追い求めるというお金的なパターンを抜け出せていないのです。


 これらのことが悟りや神というものが存在しないと言っているわけではありません。むしろ、私たちが「神」というカテゴリーを創りだすときに排除してしまっているものすべてが、実は神の一部であるということなのかもしれません。そして、悟りを私たちが目標として追い求めることで、実は私たちの悟りに必要なことそのものを必然的に見過ごしているのかもしれないのです。ここでまた、私たちは物語の中へと迷い込む危険性に気づきます。


 ほとんどのニューエイジの形而上学が教えているように、悟りという目的地に向かって意識の直線的な進化軸を上昇しているということではなく、おそらく起こっていることはもっととらえがたいことなのです。そして、意識の進化という考え方が人の心を動かすのは、意味なきことではありません。「3次元から5次元への移行」のような大まかな概要から、スパイラル・ダイナミクス(注1)のように洗練された心理社会的な地図作成にいたるまで、意識の進化に関するさまざまなが地図は、実際の現象を照らし出しています。私たちが進化しているということをです。ただそれが直線的な進化ではないというだけなのです。私たちは広大な新たな領域に足を踏み入れていて、私たちそれぞれがそれの異なる部分を探索しているのです。


 せっかくなので、「意識」が単一の現象なのかどうか、歪めることなく本質的な要素に還元できるものなのかどうかについても問うてみます。そうしようと試みると、私たちは危険な領域、「ある人たちは他の人たちよりも意識が高い」から成る領域に足を踏み入れることになります。その種のエリート主義がもたらす有害な結果は、あまりにも明白です。あるいは、すべての人が等しく意識を持っているとすれば、「人間にはあるが、動物にはない」ということになり、やがて工場式の畜舎を正当化することになります。あるいは、動物にもあるとすれば、「中枢神経系を持つ動物にはあり、植物にはない」となり、やがて単作物栽培や木をモノとして扱うことを正当化することになります。植物にもあるとすれば、水や山はどうなるのでしょうか?もうたくさんですね。もし「意識」が、私たちが多くのものに与えているひとつの名前だとしたらどうでしょうか?神や悟りのように、私たちが「意識」と名づけることによって、その一部、つまり私たちが最も目にする必要のある部分が常に抜け落ちているとしたらどうでしょうか?老子が述べたように、「名づけられる名前は真の名前ではないのです」。


 古代の人類は、今日の私たちが知っているよりもはるかに強くインタービーイングの実感の中で生きていたかもしれませんが、それにも関わらず、人類は古いものに由来する危機に突き動かされながら、新しい領域に足を踏み入れていっていると言えるのかもしれないのです。私たちはそれぞれ、ある点では意識的ですが、他の点では盲目なのです。誰かのことを「わかっていない」と思うときに、おそらく私たちはその人の欠点だけを見て、私たち自身の欠点を見過ごしています。わかっていないその人、それはあなたなのです。ウェイン・ダイアーが言うように、それぞれがすべての中にあり、すべてがそれぞれの中にあるインタービーイングの世界で、そうではないことがあり得るのでしょうか?


 世界の中に、まるで2種類の人間がいるわけではないのです。理解している人としていない人。意識があり、目覚め、進化している人とそうではない人。5次元に入りつつある人と3次元から抜け出せない人。神に選ばれた人と地獄で焼かれる運命にある人。わかっていない人や心配りをしない人たちから成る世界で、あなたはどのくらいの頻度で異星人のように感じたことがあるでしょうか?皮肉なことに、ほとんどすべての人が心の底ではそのように感じているのです。若い頃は、使命感や立派な原点や崇高な目的地に対する感覚が強いものです。その知覚を裏切るようなキャリアや生き方は苦痛であり、自分の存在の一部を遮断するような内面の苦闘を通じてのみそれらを維持することができるのです。しばらくの間は、生命力を浪費し、痛みを鈍らせるさまざまな種類の中毒やつまらない楽しみを通じて、私たちは自分自身を機能させ続けることができます。昔は、使命感や運命の感覚を一生封印し、その状態を成熟と呼んでいたのかもしれません。ですが、もはやそうではないのです。それらを埋もれたままにしていた「世界の物語」は死につつあります。私たちを依存症に陥れようと共謀してきた慣行制度は崩壊しつつあるのです。それぞれがそれぞれのやり方で、危機と奇跡、追放と招待から成るさまざまな配列を通じて、それを理解しはじめています。


 古い物語から新しい物語への移行が、まれにみる、全てか無かの出来事であるかのように書いてきましたが、現実はもっと複雑なのです。人は、古い物語のある側面と新しい物語のある側面を同時に生きることができて、これらの側面のそれぞれにおいて、危機、崩壊、間の空間、そして新しい物語への誕生という同じ変遷過程を経験することができるのです。



 新生児はかよわく、依存していて、すでに世界に定着している人たちの養育によってのみ、この世界で生き残ることができます。私たちが「インタービーイングの物語」という新しい次元へと生まれるときもそうなのです。そこにとどまるためには、すでにその次元を住み処とし、そこでの在り方を十分に身につけている人たちの助けが必要です。悟りとはグループプロジェクトなのです。 



 今日、霊的な修行やグルやマスターに関する古い教えを不要にするくらいの大規模なレベルで、「インタービーイングの物語」へと意識が突き抜けていくことがはじめて起こっています。精神的指導者の時代は終わったのです。新しい物語を生きるために外側からの助けを必要としないということではなく、さまざまな道筋を通じて、非常に多くの人たちにこの移行が起こっているので、精神的指導者という伝統的な役割を一人の人が果たすことはできないのです。20世紀後半にこの役割を果たそうとした人たちは、彼らが潔くこの世を去るか、教祖業から身をひく良識がなかった場合には、概して、金、セックス、権力にまつわるスキャンダルに巻き込まれ、不名誉な結末を迎えています。これは彼らがペテン師だったからではありません。彼らの大半は深い洞察力、神秘的な体験、深い修行を積んだ人たちであったと私は信じています。しかし、意識の水位は上昇し、多くの新しい泉から意識が湧き出るようになり、その誰もがそのエネルギーを占有することができなくなったのです。


 確かに、伝統的な系譜の内か外であるかを問わず、知恵と高潔さを兼ね備え、提供するものを豊富に持つ師は数多くいます。私はそのうちのかなり多くの方々に会ったことがあり、私自身よりもはるかに賢明ですが、それぞれが自分にとっての師たちを必要としていたことがあったようで、それを躊躇なく認めていた師たちが私がもっとも感服する人たちです。ですから、一部のニューエイジの教えが私たちに思い込ませるように、私たちは内なる導師ただ一人に頼ることができるようになるということではないのです。精神的指導者という存在は、今や一人の人間のような小さな何かに転生することはできず、グループという形をとっているのです。ティクナットハン師が述べていたように、次の仏陀はサンガ(訳註:仏法を学び実践するための集団のこと)なのです。マシュー・フォックスが話していたように、キリストの再臨は、すべての人の中にキリスト意識が出現することなのです。聖者、賢者、神秘家、精神的指導者たちによる数千年にも及ぶ務めはほぼ完了に近づいていて、彼らはほとんど時代遅れになってしまったと言えるのかもしれません。



  1. インテグラル・コミュニティーの人々にとって、検討するべきことがここにあります。スパイラル・ダイナミクスという地図の有用性は、それ自体がイエロー意識の表現であるため、その有用性が限界に近づいているということです。それゆえ、スパイラル・ダイナミクスという地図は、イエローを超えたレベルについて多くを明らかにするには不向きなのです。最高でも、それ以上のレベルについてをその概念装置で翻訳し、イエロー意識へと至らせることができる程度なのです。それは最近までは問題になっていませんでした。なぜなら、イエローを超えるものはまだ具現化していなかったからです。




第33章 真実                  第35章 運命


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