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話せば分かる。本当に?
人には言葉があります。言葉は相互理解を促進する有用な道具ですが、その不完全性を見過ごすと思わぬ事態を招くものです。
例えば「話せば分かる」「問答無用」は有名なフレーズで、しかし犬養毅の意図とは異なる伝承をされていることに留意しなければなりません。それは命乞いではなくて、彼は撃たれた後でも青年将校に話して伝えたいことがあったのだという解釈が一般的です。
仮に彼が将校に話す機会を得たとして、それは相手に伝わったでしょうか。いいえ、決して伝わることはなかっただろうと私は考えます。
例えば、若手医師が患者や家族に病状説明を行った場合、十中八九のケースにおいて医師と患者家族の認識には絶望的な乖離があります。医学的情報を適切に言語化すること自体も難しいものですから、それを極力専門用語を用いずに、あるいは用いる場合には適切に解説しながら、相手に伝えるというのは至難の業です。大抵の医師は言語化するまでで満足し、自分の仕事は終わったと勘違いします。しかしながら実際には、情報が言語化された時点で歪み、それが相手に届く過程で変化し、相手の理解する段階で変容し、双方の記憶の中で著しい修飾を受けていくのです。
言った/言わない問題の根源が此処にあります。
したがって情報伝達の際には、極力簡潔に説明しながら相手の理解を確認し、公的記録に保存する必要があることが分かります。
重要なのは一点。相手の心を推し量ることです。
どうやって説明しようかと考えているようでは、相手に伝えることなど叶いません。相手の立場や状況を理解して、相手の心を推し量ることこそ、コミュニケーションの根幹に置くべき事柄だと私は考えます。
そういう訓練を受けていない若手医師に指導する際、私は次のようなことを伝えるようにしています。
「話せば分かるなんて幻想。伝わらない情報に価値はない。病状説明はシンプルに。質問に対する回答もシンプルに。要点を確実に言語化して繰り返し、枝葉の部分を言いたかったら書面で渡せばいい。」
それから私の病状説明する場に幾度か同席してもらって、具体的な指導はしません。フィードバックなんてクソ喰らえ。自分のコミュニケーションの出来不出来を教えてくれるのは相手であって、指導医ではありません。
まとめます。
聞いても分かんないよね。わかる。
それぞれ得意分野が違うんだから、お互いに尊重し合えたらいいのにね。
拙文に最後までお付き合い頂き、誠にありがとうございました。願わくは、何処かで誰かに響きますように。
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