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自由意志とか今日の夕飯とか

 近代哲学史の大きなテーマのひとつに「自由意志」という概念があります。哲学における自由意志とは人間が外的影響を受けず自発的に思考を生み出すことであり、その有無は人間に行動の自由があるかどうかという重要な命題に繋がります。

 何言ってんだい、あるさ。

 普通はそう考えます。ところが哲学者たちは考えねばならぬ理由がありました。その理由は神学の存在です。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の源流は同一ですから、創造主たる唯一神により世界とヒトが創られたならば、創造物たる人間に個別の自由意志があるのだろうか、すべては神の意志ではなかろうかと、そういう疑問が生まれるのです。

 私の知りうる限り、この観点で論ずるならば、ユダヤ教を基準として、人間の自由意志を肯定する方向に発展していったのがキリスト教で、否定する方向に発展していったのがイスラム教であるように感じます。人間の自由意志を肯定する在り方が経済的発展や近現代の戦争に有利であったことは明白です。例えばイスラム文化圏では未来のことは神の思し召しと捉えるそうですが、これを「インシャッラー」と表現します。インシャッラーを和訳すると「神が思し召しになれば」という意味合いになって、これは未来を含めて世界の一切を神が取り仕切るために人間は関知できないという社会通念を生み出します。

 宗教を論ずると戦争ですが、私はニュートラルな立場で異文化とも対話することを希求します。組織や国家になると難しいことでも、個人同士の対話なら実現し得ると私は信仰します。

 自由意志があるのか、ないのか。

 どうして西洋哲学は相変わらずゼロとイチに分類したがるのでしょう。世界はどこまでもグレースケールなのに、デジタル思考に頼りきりでは人間関係もカクカクしてきそうだなぁと思います。科学的な証明など出来るはずもありませんが、もしも人間の自由意志なるものを定義するならば、それは確かに存在するし、そして同時に存在もしないのだろうと私は直観します。

 そもそも自由意志があろうとなかろうと、そんなことはどうだっていい。

 私は結論します。

 この私というクオリアは確かに存在して、それは私の意思で動きます。自由でも不自由でも意志であることに変わりはありません。クオリアを認知する私は自我を肯定し、拠って生命を愛します。



 拙文に最後までお付き合い頂き、誠にありがとうございました。願わくは、ディストピアの回避を。



#クオリア #自由意志 #哲学
#universe25
#それはドブネズミたちにとって
#ユートピア #に見せ掛けた #ディストピア
#動物実験の結果を安易に人間に流用することはできないし実験の意図は都市計画における人口過密状態が哺乳類に与える影響とかそんなんだった気がしますのでアレですが自らの自由意志によって人類を管理しようとする勢力はありそうな気がします都市伝説のような陰謀論のような決して表舞台には姿を見せないものたちがいるのでしょう

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