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アメリカに戦争を仕掛けた男たち

 70歳を過ぎて豊かな白髭をたくわえたその男の日課は早朝にバルコニーでひとり穏やかに読書をすることだった。だが7月31日は違った。バルコニーに現れると、米中央情報局(CIA)のドローンから発射された小型ミサイルが彼の体を吹き飛ばした。

 男の名はアイマン・ザワヒリ。米国同時多発テロの首謀者で殺害されたオサマ・ビンラディンの後を継いだ国際イスラムテロ組織アルカイダの最高指導者だ。

「正義は下された。このテロリストはもうこの世にはいない。世界中の人々はもうこの悪質な紛れもない殺人者を恐れる必要はない」

 新型コロナ感染中のバイデン米大統領は国民向けのビデオ演説でそう語ってCIAによる殺害作戦の成果をアピールした。民間人の死傷者はいなかったという。しかし現実はそう簡単ではあるまい。

 アルカイダの最高指導者がアフガニスタンの首都カブールの高級住宅街に平然と戻っていたことはアフガニスタンがイスラム過激派にとって「セーフヘブン(安全な避難先)」であることを示している。ザワヒリがビンラディンの後継者であったように、次のアルカイダのリーダーが現れる日も遠くはないだろう。未確認ながら、すでにザワヒリの後継者と目される最高幹部のひとりサイフ・アル=アデルがイランからアフガニスタンに入ったという話もある。イスラム世界での反米感情が悪化する可能性もある。

 ザワヒリはアルカイダの初期からビンラディンの腹心中の腹心だった。2001年、複数の民間機をミサイルに使って米国の中枢を破壊して2977人の命を奪った2001年の米同時多発テロをはじめ、1998年のタンザニアとケニアの米大使館爆破事件(死者224人)や2000年の米艦コール自爆攻撃事件(死者17人)にも深く関わっていたとされる。

 ザワヒリの追跡は9・11事件以前から始まり、タリバンがアフガニスタンを再び制圧した昨年以降も「CIAによって辛抱強く」続いていたと、米政府高官は記者団に語っている。

 じつは、CIAにとってザワヒリは“汚点”であり報復の対象でもあった。ザワヒリの居場所を探るためCIAはアルカイダに近いヨルダン人医師を情報源としてリクルートしたことがあった。ところが医師はイスラム過激派に忠実な2重スパイだったのだ。2009年12月30日、医師はCIAのチャップマン基地内で自爆。7人のCIAエージェントが殺害された。

 従来はパキスタンとアフガンの国境地帯に息を凝らして潜伏していると思われたザワヒリだったが、皮肉なことに、米軍のアフガニスタン撤退で今年再びアフガニスタンの首都カブールの高級住宅街シェルプールの隠れ家に移ったという。
隠れ家の場所が住宅街だったため強力なミサイルや特殊部隊による奇襲はリスクが大きすぎた。検討の末、特定の場所をピンポイント攻撃できるヘルファイア・ミサイルの一種を搭載する作戦をCIAが策定。7月25日、バイデン大統領が了承したという。
 作戦実行前にCIAは隠れ家のモデルハウスを制作しあらゆる可能性を探った。ビンラディン殺害作戦の経験が役立ったという。

 振り返ってみよう。
 その日は新月の夜だった。折からの停電がかさなった漆黒の闇の中、米軍特殊部隊の精鋭はヘリコプターから垂らされたロープをつたって高い塀に囲まれた3階建ての豪邸に降下していった。
作戦名は「ネプチューン・スピア(海神の槍)」。パキスタン北部アボタバードに潜伏するコードネーム「ジェロニモ」と呼ばれるテロリストの殺害が目的だった。2011年5月2日未明のことである。

「彼(ビンラディン)のすぐ側の棚に銃があった。危険な状況だ。彼が自爆しないよう、私が頭を打ち抜く必要があった—そして額に向けて2発撃った。バン!バン! 2発目で彼は倒れていった。それからベッドの前の床に倒れたところにさらにもう一発、バン!彼は死んだ。動かず、口から舌が出ていた」

 隠れ家に突入しビンラディンを射殺した米海軍特殊部隊元隊員は2013年に沈黙を破って、殺害の瞬間の模様を米エスクァイア誌のインタビューでそう語っている。遺体は米軍のDNA鑑定によってビンラディン本人と確認されたという。

 同日、米空母カール・ビンソンで水葬の儀式が行われ、ビンラディンの遺体はアラビア海に沈められた。アメリカ政府はその理由を埋葬場所が見つからなかったからとしているが、恐らくイスラム過激派による遺体の回収や埋葬された場所がテロリストの聖地になることを恐れたのだろう。アメリカ政府は遺体の映像を一切公開しないと決めている。
 
 世界で最も恐れられた男の姿はこうしてこの世から消えたが、アルカイダ創設者はどんな男だったのか。彼の生い立ちは、我々がよくイメージする貧困や差別から生れたテロリストとはまったく異質なものだった。

 1957年3月10日、ウサマ・ビンラディンは建設業で財をなしたサウジアラビア有数の富豪の一族として生れた。その後、敬虔なスンナ派のイスラム教徒の父の下で育てられ、首都リアドに次ぐ大都市ジッタの一流大学に進学。経済学や経営学を学んでいる。

 宗教上の理由からか音楽や映画を好まなかったが、サッカーが大好きでイギリスの名門プロサッカークラブ・アーセナルFCのファンだったという。戒律の厳しい母国を抜け出してはレバノンの首都ベイルートにある派手なナイトクラブやカジノに頻繁に出没していた。190センチを超える長身で甘いマスク。女性とも遊び、酒も飲んだという。

 早い話が、人も羨むような典型的なエリート富裕層の若者だったのである。そのまま父の仕事を継いでいれば、大金持ちの経営者として自由気ままな人生を送れただろう。

 しかし、信心深い父の影響もあって、ビンラディン青年はいつしかイスラム同胞団の理論的指導者だったエジプトの作家サイイド・クトゥブの思想に感化されていた。

 クトゥブは反世俗主義、反西洋文明主義者だった。イスラムの教えのみが真の文明社会を実現できると信じてイスラム社会の建設を訴えた。同時に「堕落した」物質主義のアメリカを痛烈に批判していた。これ考え方がその後ビンラディンが突き進む「ジハード(聖戦)」の思想的原動力になった。
 
 そんな彼の人生に大きなターニングポイントが訪れる。1979年のソ連軍のアフガニスタン侵攻だ。第2次大戦後初めての非イスラム勢力によるイスラム国家の占領はアラブ世界を震撼させ、ビンラディンの闘争心を猛烈に掻き立てた。

 「私は怒りに燃え、ただちにアフガニスタンに向かった」 その頃を振り返って彼はアラブ人ジャーナリストにそう語っている。

 憤慨したビンラディンは、ソ連軍に抵抗する「ムジャヒディーン(ジハードを遂行する戦士)」に資金援助をするだけでなく、活動拠点をアフガニスタンに移し彼自身も戦闘に参加するようになった。

 アフガニスタンで共に戦ったパレスチナ兵士はビンラディンのことを「恐れを知らない男」だったと記憶していた。

「彼は我々の英雄だった。常に最前線で戦い、いつも誰よりも先を行った。
資金を提供してくれただけでなく、彼自身を我々のために捧げてくれたのだ。アフガン農民やアラブの戦士と共に寝泊まりし、いっしょに料理をつくり、食べ、塹壕を掘った。それがビンラディン流のやり方だった」
 
 1988年には、ソ連撤退後も世界各地でジハードを展開するため同志とともに国際テロ組織「アルカイダ」を設立。翌年2月にソ連がアフガニスタンから撤退したことで、「強大な超大国を倒した英雄」としてその名をアラブ世界で轟かせるようになった。

 1990年、サダム・フセイン大統領率いるイラク軍が隣国クウェートに侵攻し湾岸戦争が勃発した際には、メッカとメジナというふたつのイスラムの聖地があるサウジアラビアに米軍の駐留を認めたサウジ王家を「背教者」と手厳しく非難し、さらに過激な反米活動へと傾斜していった。

 サウジ王家から国外追放されたビンラディンはスーダンに拠点を移し、持ち前の優れた交渉力で各地のイスラム戦線との関係を強めて「アルカーイダ」を国際テロ組織へと発展させていく。パキスタンの軍統合情報局(ISI)によれば、ビンラディンは最盛期には少なくとも30の異なるテロ組織とアライアンスを組んでいたという。大した組織力だ。

 1992年12月には米軍が滞在していたイエメンのホテルを爆破。翌年2月には同時多発テロの序章となった手製爆弾によるニューヨークの世界貿易センター爆破(6人死亡)など、宿敵アメリカに対する「報復」をさらに活発化させていった。

 とりわけ、銃撃戦によって19名の米兵を殺害し2機の米軍戦闘ヘリ「ブラックホーク」を撃墜した1993年のソマリアの首都モガディシュでの戦闘は、ビンラディンにとって大きな勝利の瞬間だった。よほど嬉しかったのだろう。彼はイギリスのインディペンデント紙の記者に次のように語っている。
 
「(ソマリアでの)米軍の士気は驚くほど低かった。そして我々はアメリカがペーパータイガー(張り子の虎)にすぎないと確信した」
 
 ふたたびアフガニスタンに戻ったビンラディンはタリバン政権の庇護を受け、最高指導者ムハンマド・オマルと親密な関係を築いて、1998年にはタンザニアとケニアの米国大使館をほぼ同時刻に爆破。アメリカ人12人を含む224人を殺害した。2000年10月にはアメリカ海軍駆逐艦「コール」に自爆攻撃を仕掛け17人の水兵を殺害している。
 
 そしてついにその日がやってきた。2001年9月11日の米同時多発テロである。テレビ中継されたその想像を絶する光景は全世界に激しい衝撃を与えた。この日を境に世界の景色が変わったようだった。

 航空機の運航が再開されるとすぐに私は現地に飛び、無残なテロの爪痕を取材した。炎上し轟音とともに崩れ落ちたニューヨークの世界貿易センタービル。無残に突き破られたバージニア州アーリントンの国防総省本庁舎(ペンタゴン)。ハイジャックされ米議会議事堂に向かう途中で犯人と乗客がもみ合いになりペンシルベニア州で墜落してバラバラになったユナイテッド航空93便の残骸。

 19人のテロリストを含む3000人近く(日本人24人)が死亡し、25000人以上が負傷するという大惨事だった。

 それにしてもアメリカの軍事、政治、経済の中枢を乗客が乗った民間航空機で攻撃するという空前絶後の作戦はどのようにして発案されたのか。
 
 じつは事件発生の数年前、アルカイダ幹部のハリド・シェイク・ムハンマドとビンラディンが密かに構想を話し合っていたことが明らかになっている。

 93年2月に地下駐車場で手製爆弾を爆発させて世界貿易センタービルを倒壊させようとしたが失敗した。そこでムハンマドは燃料を満タンに積んだ飛行機をミサイル代わりにして複数の標的に突っ込ませる方法を思いついたという。当初の計画は、アジアで11機の旅客機をハイジャックして、米本土を狙うシナリオだったというから背筋が寒くなる。

 ビンラディンもその計画に賛同し、留学生を装った実行犯をアメリカの飛行訓練学校に送り出して周到に準備を進めた。そして前代未聞の同時多発テロが実行にうつされたのである。

 ホワイトハウス西棟の地下にある緊急対応室では、オバマ大統領ほか、バイデン副大統領、ゲーツ国防長官、クリントン国務長官、マレン統合本部長らが、特殊部隊が身につけたボディカメラのリアルタイム映像を固唾を飲んでみていた。
 
一方、ビンラディンは事件後程なくして「私はこの行為をやっていない」との声明を発表して関与を否定し、姿を消した。

 米政府の必死の捕獲作戦でもビンラディンはみつからず、一時は死亡説も流れた。捜索は2009年にオバマ政権に移ったあとも続いた。そしてついにハリド・シェイク・ムハンマドを逮捕し、拷問の末にビンラディンの隠れ家を特定したのである。
 
ビンラディン殺害の一報はアメリカのCNNニュースによって伝えられ、オバマ大統領は深夜の時間帯に異例の記者会見を開いて”justice has been done(正義はなされた)“と宣言した。首都ワシントンのホワイトハウス周辺やニューヨークのワールドトレードセンター跡地には数千の群衆が集まり歓喜の声を上がった。
 
 ビンラディンの亡骸は誰の目に触れることのできない海の藻屑として消えた。しかし、彼のアメリカに対する執拗な「聖戦」のインパクトは多くの若いイスラム教徒の間でレガシーとして受け継がれている。

 「オサマ(ビンラディン)に対してアメリカが憎悪を露わにしたとき、イスラム世界では反対に彼に対する愛着が強まった。大多数のイスラム教徒の若者たちはオサマを彼らのヒーローだと思っている。彼が何処にいようと、彼を愛する人々の数は減らないだろう」パキスタンの新聞は社説でそう書いた。その証拠に、イスラム教徒の間では新しく生れた子供に「オサマ」という名をつける夫婦が劇的に増えた。

 同時多発テロ事件から20年後におこなわれた米ABCテレビとワシントン・ポスト紙の世論調査によれば、テロの脅威に関して「アメリカがより安全になった」と感じる人はわずか49%しかいなかった。事件後で最も低い水準だ。大半のアメリカ人にとって、ビンラディンの残像がいまだに不安を掻き立てているのだ。                                              
                                                                                      (写真はexcite.co.jp)
 

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