初めての中国訪問1985年夏、北京原人と盧溝橋(私の中国との出会いと交流 その五)
宴会が始まった。席には宴会担当のネームプレートをつけた大食漢を絵に描いたような大柄の人を囲んで宴会が始まった。
宴会担当の役割はすぐにわかった。私達のような客人をもてなすために、どんどん食べて料理の美味しさを身体で表現し、客人の皿にこれでもかこれでもかと料理を入れるのである。
白酒の一気飲みに始まり、温いビール、紹興酒をグラスに注いでくれる。ご馳走をたらふく食べて酔いも回り、いい気分の頃にビジネストークが始まった。
ひとしきり話が終わったら、明日は運転手付きで車を用意しているので行きたいところがあったら何処でも行ってきてくださいと申し出があった。
過分のもてなしと恐縮したが、既に準備しているのでといわれ、であるならば北京原人が発掘された周口店と日中戦争の発端となった盧溝橋事件の現場に行きたいと申し出た。
翌朝、ホテルに車が到着した。観音開きドアの上海という自動車だった。私と先輩の同僚とC先生の3人で車に乗り込み、まずは周口店を目指した。
周口店は後に北京原人遺跡として世界遺産登録されている。
閑散とした駐車場で降りて発掘現場を散策し、帰り際に記帳台があったので、ノートを見た。国交正常化後、かなりの数の日本人が訪れたようで日本語の記帳がまず目に飛び込んだ。
その内容のほとんどは日本の侵略を謝罪し、今後の日中友好を願うものであった。
かたや中国語の文章は理解できなかった。C先生に説明をお願いしたところ、「日本の方は真面目ですね。中国人の書いたものは、ここにあるのは全て偽物、入館料を返せとか、そんなものがほとんどです。」
それもそのはず、発見された北京原人の骨は日中戦争の最中に米国で調査するため移送中に紛失され、展示されているのはレプリカだったからである。
周口店から盧溝橋に向かい車を走らせた。郊外の村々の中の舗装されていないデコボコ道を通るので、車内は大揺れの連続。今の中国では想像できない道路事情を体験した。
盧溝橋に到着する。橋は石造りの欄干のあちらこちらに獅子の彫刻が彫られてあり、一つとして同じ形の獅子がないという芸術的な美しい橋だった。マルコポーロが東方見聞録に世界一美しい橋と記し大絶賛した橋であったが納得する。
橋の中央に立ち、支那事変と呼ばれた盧溝橋事件勃発時の戦闘状況を想像し身のすくむ思いを感じた。
橋の袂に小さな抗日記念館と、盧溝橋の記念碑があった。清朝に書かれた碑文の文字は満州語、漢語、モンゴル語、あと一つはチベット語だった気がする。清朝は満洲族が支配した国であった。
当時の抗日記念館は小さな建物でその中に盧溝橋事件当時の写真が壁に並んでいた。神妙な面持ちで写真を眺めてから盧溝橋を後にしてホテルに戻った。帰りの車中では疲れたのか誰も話をしなかった。