子は授かりもの?預かりもの?
最初にお断りしておきたい事は、今日のnoteは決して世間様に自分の子育て論を披露して、こんな素晴らしい考えで育児をしているのだ!という自慢をするためのものではない。
私の息子はまだ10ヶ月と、この世に出てきて1年にも満たない。
子育ても先が長い。
その中できっと息子を、自分の感情に任せて叱ってしまうこともあるだろう。
当たり前の平和な日常に感謝できない日もあるはずだ。
そんな未来の自分に向けて、ここに自分の心持ちを書き留めて置きたい。
私の妊娠が発覚したのは、ちょうどハネムーンから帰国した2ヶ月後だった。
妊娠する前は、子どもができることに対して不安に思ったこともあったし、子どもを作らなくても良いかなと思ったこともあった。
しかしそれと同時に、優先順位が自分でなくなる感覚を味わってみたくもあった。
自分人間だった私が、自分以外のもののために自分を傍における。
自分だけのために生きるなんてつまらないし辛すぎると思っていたところだったから、それはなんて素晴らしいことだろう。と期待を膨らませていた。
そして妊娠が発覚した時は一人だったが、自分でも驚くくらい、子どもができたことに喜んでいる自分に戸惑いさえ感じた。
夫と両親にはサプライズ発表し、それはそれは10年分くらいの楽しい思いをさせてもらった。
その後の約十月十日間は、ひたすらどんな子育てをしようか、どんな心持ちで赤ん坊を迎えようかということで頭がいっぱいだった。
そして、それはとても面白いことだった。
この時一つ、必ず忘れないでおこうと思ったことがある。
それは、子どもは授かりものではなく、預かりものだということ。
子どもは決して自分のものではない。
子どもを所有物と感じた瞬間から、自分も子どもも縛り付けてしまう。不幸にしてしまう。
所有物にはいつも自分の思い通りにいてほしい、動いてほしいと思うのが自然なことだと思う。
テストでいい点をとらせなければ、一流の大学にいかせなければ、というような分かりやすいものから、優しい子でなければいけない、迷惑をかけない子でなければいけない、という一見分かりにくいものまで、親の欲というものは果てしないものだ。
実体験からいうと、親がきっちり見守っていれば子どもはわかるべきことを、わかるべき時に自分で学ぶのだ。
そして自分で学んだ事というのは、きっちり身になる。
人に強制されて学んだ事などは、人の監視下にある時のみ実行するパターンが多い。
身になりにくいのだ。
河合隼雄さんの言葉を拝借すると、自分は教育者ではなく、あくまでも保護者でいようと決心した。
つまり、親(私)は見守り役に徹底するということだ。
おそらく気が遠くなるほど高度な事だろう。
できる自信があるかないかと言えば、限りなくないに近い。
理想論なのかもしれない。
しかし、その事を妊娠中に考え続けていたからか、この10ヶ月間は息子を自分の子供であると同時に、他人のようにも思える不思議な感覚がある。
その感覚は大切なことのように感じる。
自分の息子であるが、預かっている子。
預かっていると考えれば、丁寧に子育てをし無ければならない。と嫌でも思う。
自分と切り離して考えることができたら、愛おしさも増す。
考えれば、この世に自分のものなんて一つもないのかもしれない。
極論だが、森や水の所有権があること自体にも狂気を感じる。
自分の体さえ預かり物なのだろうと息子を通して思うようになった。
毎日が忙しくて飛んで過ぎるようだし、息子も活発になってきて目が離せないけれど、「預かり物」というワードをこれからも息子と共に学んでいきたい。
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