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やましいきもち

「他者を救えるひとか傷つけないひとか、どちらかにしかなれないのだったら、私は傷つけないひとになりたい」と、大学で出会っただいすきな女の子がかつて言っていた。うっかりやでおっちょこちょいで、月を愛する女の子だ。

その言葉を反芻するたび、彼女の甘さと幼さと、泣きたくなるくらいのやさしさが私の胸をひたひたに満たして、どうしていいのか分からなくなってしまう。

私はずっと、圧倒的に誰かを救えるひとでいたかった。

だって、きっと私は自分でも気づかないうちに誰かのことを傷つけている。誰かが懸命に守り抜いた小さな花のようなものを踏みにじっている。さりげない言葉でやわらかなこころをえぐっている。知らないうちにだ。

だって私、今までたくさん傷ついてきた。誰かのふとした視線や、何の気なしに吐き出されたため息や言葉、その気のない無意識な態度なんていうものに。きっと誰もがそう。誰もが誰かの無意識のうちに傷つけられ、そして自分も知らないうちに誰かを傷つけ、生きてきたはずだ。

誰も彼もに好かれることができないように、誰も傷つけずに生きることなんて、たぶんできない。どれだけ努力してもたぶん誰かを傷つけている。下手したら私が生まれたことさえ、誰かの傷になっている可能性もある。それは私には分からないことだけども。

だから、もし誰も傷つけないなんてことがそもそもできないのだったら、圧倒的に誰かを救えるひとでありたかった。ほんの一瞬でも誰かの雨を晴らしたり、あたたかい上着を渡したり、世界を歩いていくための歌を授けたりしたかった。そういう存在であれたらいいな、とつねづね思っていた。

けれど彼女があの日言った言葉は、今でも私のこころをきゅっとつかんでいて、だから私はこうしてときどき考えてみる。

たとえ誰かにどんなに傷つけられても、そのひとにしか与えられない救いがある。それもまた事実だ。そして誰もが誰かを知らないうちに傷つけているならば、同じように、自分でも分からないままに、誰かを救っていることだってあるのかもしれない。

そのようなひどく曖昧な世界で、救えるひとか傷つけないひとかどちらかにしかなれないのだったら、私は傷つけないひとになりたいと言ってのけた彼女を、私は、春のあたたかな雨のようなひとだと思ったり、プールの底から見上げる水面に揺れる、太陽のひかりのようなひとだな、と思ったりする。



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