東大和市旧日立航空機変電所訪問記
ヘッダーの画像は、米軍の爆弾の模型。
「さわらないで(ばくはつはしませんが)」の注が可愛い。
入口から入って最初に見ることができる。
ちょっとほのぼのした気持ちになれて、イイと思う。
志村けんが「さわっちゃ、やーよ」と言っているみたい。
東大和へ
今朝、東大和まで行ってきた。
昨日、急に思い立ったのだ。
ひさびさに〈おしのびの〉遠足である。
こういうことが僕にはしばしば起きる。
以前も、大学の組合の仕事でいろいろ忙しかった僕は、急にすべてを放り出して、携帯電話を携帯せずに、ひとり、どこかに行きたくなって、たまたまテレビをつけたら、黒豚の酪農家を報じていて、そうだ!と思って、その場で航空会社に電話し、翌日発の鹿児島までのチケットを取った。
そういう突発的な行動を、僕はしばしばやる。
実を言えば、東大和市の旧日立航空機変電所が、以前から気になっていた。
noteで相互フォローしていただいている方の、旧変電所に関する記事を拝読し、知的好奇心を駆り立てられていたのである。
あの方の文章力、たいしたものだ。
この僕を行動に移させたのだから。
でも特に予定はしていなかった。
ただ突如、昨日、急に「いくべし!」と思ったのである。
ミクロヒストリア
資料館の説明員の楢崎さんが、たいへん細かくディテールまで豊かに説明してくださった。
実際に被害に遭われた方々の記憶が、必ずしも常に正確ではないこと、
それに、米軍側の資料との詳細な事実関係の付き合せで次々と分かってくる、「実際にあったこと」は史料批判の妙を感じて、実に面白かった。
興味のある方は、東大和まで行かれて、勉強すると良いと思う。
「さわり」だけ明かすならば、変電所への空襲は、必ずしも当初から米軍内で変電所の破壊を主要な目的として計画されたのではなかったということだ。
ひととおりの説明が終わった後も、楢崎さんは丁寧に個別の質問に答えてくださった。
僕も、対空防衛について質問した。
やられてばかりじゃなくて、やりかえしたはずだ、と思ったからだ。
案の定、日本軍はちゃんとやりかえしていて、少なくとも二機、撃墜していた。
そのありさまも、楢崎さんがまるで見てきたかのようにお話してくださった。
面白かった。
市民有志諸君!
資料館で、
東大和・戦災変電所を保存する会(編)『西の原爆ドーム、東の変電所 戦災変電所の奇跡』(東大和・戦災変電所を保存する会、二〇一七年)
を買った。
それによれば
1981年、「東大和の戦争と郷土史研究会」(代表・富山稔子)が発足。参加者の多くは東大和市に移り住んだ主婦たちだったが、旧日立航空機立川工場関係者からの聞き取り調査など地道な作業を始めた。
1991年、「東大和の戦災建造物(旧日立航空機給水塔・変電所)の保存を求める市民の会」が発足。尾崎清太郎前市長の旧日立航空機幹部への呼びかけで結成した同会は、東京都議会への陳情を始めた。
1995年、東大和市が戦災変電所を文化財に指定。
2012年、「東大和の戦争と郷土史研究会」が代表の病気に伴い解散。
尾崎氏も故人になり、「東大和の戦災建造物の保存を求める市民の会」も活動停止となる。
2015年、「東大和・戦災変電所を保存する会」(会長・小須田廣利)が発足。市民有志が中心となって資料の発掘調査を続けている。
興味深いのは市民有志諸氏である。
彼らがいなければ、こんにちの「旧日立航空機変電所」は無かった。
2020年度、耐震工事など改修を行なって2階に入ることが可能になったのも、それを下から支えた草の根の市民運動があったおかげである。
しかし彼ら市民をそこまで駆り立てる動機はなんなのか。
僕が戦争社会学の専門家だったら、そこを研究するところだが、残念。僕は歴史家だ。
ただちょっと気になったのでノートしておく。