逆ギレされた話
自己充足している人は、自我が強すぎて思考停止状態にある人だ。
自分の言葉を横領されたくなければ、目を覚まし、防御すべきだ。
理論武装の過程で、思考は洗練される。
フィーリングでわかりあうサークルを支配するのは、同調圧力でしかない。
情は理に敗北する。
初めて学生から逆ギレされたのは、江別にある大学でのことでした。
僕は教養とは何か、具体例をあげて説明したかったのです。
そこで、あるテレビドラマに対する感想の抱き方について話しました。
そして、ランク的に低レベルの某短大の学生は「ただただ泣けてしまう」と言っていたのに比し、高いレベルの某医学系の大学の学生は「あ、このまま泣いたら、テレビ局の思うツボだ、泣いたらいけない、泣いたらいけない、と思いながらも泣いてしまう」と言っていたことに触れました。
そして、自分を自分で客観視できるか否かが、教養があるかないかの、ひとつのキーだ、と言いました。
江別の大学はほぼほぼFランクでした。
劣等感の強い学生諸君は「西願は学歴差別主義者だ」と、「単純化」して僕を認識しました。いわゆる「レッテル貼り」です。
そして低レベルの某短大の学生のほうが「素朴で良い、素直で良い」と、半ベソで反論しました。(実際に泣き顔を見たわけではありませんが、レポートからは泣きわめいた様子が感じとられました。)
僕にとって、「素直」とは「愚か」を意味し、「愚か」とは「弱さ」を意味し、「弱さ」とは「傷つきやすさ」を意味していたので、たいへん困りました。だって学生から「愚かで、弱くて、傷つきやすくて、何が悪い」と開き直られたら、学生を「賢く、強く、タフにしたい」と思っている教育者はどうすれば良いのでしょう。
落ち込みました。
「賢く強くタフであって」初めて、市民として社会に貢献できるはずです。
自分の愚かさに自己充足している人間は、それだけで社会的には罪のはずです。
そもそも劣等感とは自我の強い連中が持つものです。
困ったことに、彼らは自我への執着が、「学び」から自分を遠ざけていることを、自分で理解できないのです。残念なことですが。悲しいことですが。困ったなああ。
いやはや困りました。
あれ以来、「弱者」の扱い方に悩んでいます。
実際、しばしば同様の逆ギレに、僕は遭遇しています。
「似たようなことが起きる背景には、構造がある」。
おそらく僕の精神構造に問題があるのでしょう。
どうしたものでしょうかねえ。
例えば、もしも誰もが「強者であると同時に弱者」であるならば、誰もが心臓を持っているのと同じで、心臓を持っていることは問題とならないはずです。
それなのに、自分が「弱者」であって「強者」ではないことに意味を見出し、アレクレコレクレ、クレクレタコラと、じゅうぶんな社会貢献をする意思すら持たず、要求だけをする方々がいらっしゃいます。「乞食根性の持ち主」とでも呼びましょうか。多くの野党支持者はどうやら、そうみたいです。
そもそも「平等」とは「弱者」だけを贔屓することではないはず。「弱者」にも「強者」にも、ウサギにもライオンにも生きやすい社会を作ることが大事なはず。
例えば、旦那さんがウサギで、奥さんがライオンであるとした場合、何故、年がら年中、ウサギの世話だけでなく、ヒヨコ(=おこちゃま)の世話までも、すべてライオンがしなければならないのかと疑問に思いませんか?それと似た問題です。
不条理です。
悩みはつきません。