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情の浮気癖 ―石破さんへのあえての期待

僕は短気だし、些細なことですぐに落ち込む。
感情的になることで、いろいろと愚を重ねてきた。
ここ数年、年老いたおかげか、少しずつ情の支配から離脱しつつある。
最後に怒鳴ったのは、昨年の夏だ。
それでも未だに、荒廃したガザの写真を見るたびに涙ぐむ。
先日は「サザエさん」を見て、古き良き日本を思い出して、また泣いた。

でもそんな僕だからこそ、情よりも理の大切さを知っている。
日本人は感情的な民である。それを意識していないことがダメである。


感情的な「反戦平和」


例えば、左翼の反戦平和運動。
それは何らかの理念に基づくものではない。
むしろ「こわかった」「悲しかった」「かわいそうだった」といった感情そして記憶をベースに成立してきた。
だからこそ様々な党派を超えてひろく国民全般に浸透した。
しかし感情的だからこそ、長続きしない。
それは、客観的状況がかわれば、かわる、消える。
アメリカの力の相対的低下、中国の台頭などの、客観的状況に基づく新たな安全保障の必要を説く理の前に、従来の日本の反戦平和運動は急速に影響力を失いつつある。


感情的な「サムライの教え」


しかしながら右翼のサムライの教えも、また感情的である。
神風で死んだ兵士たちへの憐情とともに、滅私奉公の大切さを説くサムライの教えは、いまや影響力を失った。
例えば、靖国の右翼は次のように言いつづけてきた。「彼らの犠牲の結果、現在の平和な日本がある」と。
しかしこの言説は非論理的である。
戦争で日本軍は敗北したのだ。つまり神風で散った兵士らの夢は、叶わなかったのだ。それゆえ「現在の平和な日本」と「彼らの犠牲」の因果関係は自明ではない。
「現在の平和な日本」の背景にあるのはアメリカとの軍事同盟である。
神風の兵士らはアメリカとの軍事同盟を成立させるために、「天皇陛下バンザーイ」と叫んで特攻したのではない。

かくしてサムライの教えはいまやナンセンスとなった。
そもそも歴史は、たとえ韻を踏んでも、繰り返すことはない。
そんな歴史に対抗できるのは理であって、情ではない。
右翼は何故サムライの教えが消滅したのかを理知的に反省すべきである。
私見によれば、それが浪花節的な演歌的な情念に基づいていたからこそ、それは時代の風に耐えるにはあまりにも脆弱すぎたのである。
「俺とおまえは同期の桜」と歌うまえに、「俺とおまえを同じにするんじゃねえよ」と反駁する人間がいるであろうことを想定して、言葉を発するべきなのだ。


浮気な日本人


「鬼畜米英」と叫んでいた連中が、手のひらを返すごとく「民主主義万歳」と言い出す。この現象は、日本人が感情に基づいて行動する民族であることをよくあらわしている。
そうだとも。感情とは一時的なものだ。一過性のものだ。かわりやすい。
もちろん「江戸のカタキを長崎で」という恨みの感情もあるだろう。しかしそれは我執であって恒心ではない。
それゆえ感情は愚かなものとされてきた。
「情痴」という言葉が存在する所以である。

2024年10月27日の選挙で、自民党は、政治とカネの問題で、国民を怒らせた結果、大敗を喫した。
しかし理念(大義)において敗れたわけではない。そもそも、理念が争点にならなかった。
それゆえ来年の今頃には、自民党も再び元気になっているかもしれない。
畢竟、日本の一般大衆が「理」よりも「情」を、あるいはさらに悪いことに「情」よりも「利」を大事にしている限り、昔ながらの自民党的な政治は永遠に不滅です。

例えば、恋はいっときのもの、愛は永遠のもの、と言う。
何故なら、愛は理(大義)に基づくから。
大事なのは、ほんとうの愛は自分のためだけでなく世のためひとのためになることを、知的に理解しておくこと、そして、言葉にして文章にして固定しておくことである。

朴訥なプロテスンタントの石破茂氏には、謙虚に誠実に愚衆を啓蒙していってもらいたい。
そのためには自民党大敗の責任を安倍に帰することで、古い自民党から不死鳥のごとく新しい自民党を蘇らせなければならない。悪いのはすべて安倍だと言って、安倍に象徴される一強独裁、ポピュリズム、国粋主義、新自由主義を廃棄してほしい。
そのための剣こそが、理である。ロゴスである。
石破さん、孤独な戦いは慣れているはず。

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