伊藤昌亮「ひろゆき論」を読んで-リベラル派の功罪
「ひろゆき論」
岩波書店のWEB世界に伊藤昌亮氏の「ひろゆき論」が載っていた。
まとめれば次のようになる。
世の中には二種類の弱者がいる
ひとつめが、リベラル派が支援することで、正当化されて権威を付与された弱者である。高齢者、女性、LGBTQ、沖縄米軍基地のせいで苦しむ住民などである。
もうひとつが、ひきこもりのニートなど、リベラル派からは取りあげられることのない「ダメな」人々である。リベラル派から排除されたと思った彼らこそが、ひろゆきを支持した。
ひろゆきは彼らに向かって、インターネットさえうまく使いこなせば、君も強者になれる、金持ちになれると吹き込んだ。そしてその一方で、リベラル派が支持する弱者をシニカルな態度で侮蔑した。
かくして伊藤氏はひろゆきを差別的・陰謀論的と結論づける。
リベラル派がひろゆきブームを生んだ
しかし伊藤氏の議論を別な角度から見てみれば、ひろゆきブームを生み出したのはリベラル派だということにはならないだろうか。
この点について、もっと〈つっこんで〉考えてみるべきではなかっただろうか。そもそもリベラル派の何が問題だったのか。どこでこんな〈くるい〉が生じたのか。
「かわいそうな弱者を助けたい」という、もともとのリベラル派の気持ちは間違えていなかったはずだ。それにもかかわらず、リベラル派の意図に反して、リベラル派の弱者救済運動はひろゆきブームを生んでしまった。何故なのか。
たしかにひろゆきはシニカルだ。
しかしリベラル派も、多かれ少なかれ、シニカルではないのか。
例えばリベラル派にとっての強者のイメージは「自分の利益しか考えないで弱者を搾取するエゴイスト」という、シニカルなものだ。
しかし何故、強者だけがエゴイストで、弱者はエゴイストではないと言い切れるのか。
おそらくひろゆきの支持者は次のように思ったのではないか、「今日の強者は、昨日の弱者ではなかったか」と。たしかに成金を見れば、そう考えることはできる。
かくして彼らは次のように思ったのだろう、「所詮、人間なんてみんなエゴイストだ」と。
社会的信頼関係の破壊
リベラル派の議論には強者への信頼がなかった。その意味でシニカルであった。
とはいえカーネギーだって、ロックフェラーだって、渋沢栄一だって、ただのエゴイストではなかったはずだ。ただただ弱者を搾取して成り上がっただけの意地悪な金持ちではなかったはずだ。
しかしリベラル派は、乱暴なことに、あらゆる強者をいっしょくたに非難した。
その乱暴で大雑把すぎる議論が、社会そのものを破壊する要素を有していたとは言えないだろうか。そもそも社会において大事なのは「みんな一緒」という共和主義的な思想である。しかしながらリベラル派は、自分と違う意見の持ち主や強者を排除することによって、社会そのものの分断と破壊を助長したとは言えないだろうか。
まさにひろゆきブームはその後に生まれた。もはやひろゆきもその支持者も、社会的紐帯を考慮に入れないし、相互扶助の思想もない。「ダメな」ばらばらの個人が孤独にパソコンの前に座って金を稼ぐ、それだけである。社会がもはや存在していないのだ。
疑問視すべきもの
そもそもリベラル派は、ひろゆきと同様に、強者とは即ち富裕者だと認識している。
では富裕な同性愛者は、強者なのか弱者なのか。
ひろゆきを喧嘩でボコボコにできる貧しいが腕力のある男は、強者なのか弱者なのか。
多彩な縁故を持つ元総理大臣を暗殺した孤独な若者は、強者なのか弱者なのか。
おそらく問題は弱者/強者というカテゴリーの使用なのだ。
それゆえ私は提言したい。
もういいかげん、弱者/強者について語るのはやめにしないか。
そしてただ勇気と仁徳がある行為を尊敬し、陰険で卑怯な行為を軽蔑したい。
例えば岸田秘書官の首相公邸での忘年会は「幼稚」な行為だが、「卑怯」ではない。しかしその案件を鬼の首を取ったように国会で取り上げるリベラル派の行為は、決して「勇気」も「仁徳」も感じさせるものではない。そういうことである。