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美術館と博物館

美術館
美術館は楽しい。
なぜなら芸術作品は、芸術家が観てもらうことを想定して、作っている。
たとえ芸術家がこの僕に観てもらうことを想定していなくても、それでも誰かに観てもらうことを想定して、作っている。
それゆえそこにはメッセージを発信する側と受け取る側のコミュニケーションがあらかじ前提とされている。つまり「解」の存在を前提とした「ゲーム」が、成立する。

僕は足繁く美術館に通うほうではない。
それでも、例えば数年前に東京駅で開催された、小早川秋聲の戦争画の展覧会は素晴らしかったので、記憶に残っている。
従軍画家になったはいいけれど、どうしても軍部が望むような勇ましい絵画は描けない。彼が注目するのは、ひとり歩哨に立つ兵士、疲れきった兵士、死んだ兵士であって、勇猛果敢に敵兵を殺戮する兵士ではなかった。
 
僕も、勇猛果敢な兵士って、なんなんだかあ…と思ってしまう。
以前、研究者仲間と軍事史の概説書を出したとき、なにか表紙にふさわしい図版を探してほしいと言われ、ギヨーム・レガメーの「居酒屋の胸甲騎兵」という絵を推したら、オモテではなくてウラ表紙に使われた(ま、それでも使ってもらえたから、嬉しかったんだけどね-。僕ってB面が似合う男なんだね-)。
 
そんな僕だから、小早川秋聲の気持ちは良くわかる。べつに誰かを批判したいわけでもなく、ただ自分らしくあろうとすると、A面の主流からは遠くなるのだ。
決して「巨人、大鵬、卵焼き」が嫌いというわけではないのだけれども。
陽のあたる場所だと、ぎくしゃく、しゃっちょこばってしまうのだ。
講堂の舞台の上から大勢の学生を前に訓示を垂れるよりも、地下のバーのカウンターで一人か二人の学生を前に人生を語るほうが、僕には似つかわしい。

博物館
博物館は美術館とは違う。
博物館の展示物は大抵の場合、観てもらうことを想定して作られていない。
例えば戦場で使用された兵士の飯盒が展示されているとする。
飯盒は僕に観られるために作られたのではない。
ただ兵士によって使われるために作られたのだ。

だから僕自身がこの飯盒に意味を与えなければならない。
僕自身がこの飯盒から、なにか物語を作っていかなければならない。
そのとき学芸員のサポートが必要になる。
例えば、ご飯は美味しかったのかまずかったのか。
ご飯について書かれた兵士の日記や手紙があれば、最高だ。飯盒の横に展示できる。

たしかに、ただ単にモノが雑然と並べられていても、それでは体裁の良い「物置」である。だから学芸員がナラティブを駆使して博物館に「わかりやすい物語」を与えようという流れが、博物館学では強まった。
ところがその流れの強化の果てに、最近やたらと、ご立派な物語(特に道徳的な物語)をこれでもかこれでもかと、しつこく押しつけてくるナラティブが流行するようになった。短絡的で単純化された物語。反証可能の余地を残さないような。例えば、知覧特攻平和会館などだ。
来館者を感動させたい、来館者に涙を流してもらいたいという、ウラカタの想いが強すぎる。

おそらくこの種のナラティブの流行は、来館者の期待と裏腹の関係にある。
来館者が望むものを、学芸員は提供しているだけだとも言える。
思索する力がない来館者は、短絡的で単純化された物語を望む。だから博物館はそういうひとたちに適合したナラティブを提示する。そういう共犯関係がそこにはある。

しかし博物館は涙するところなのか、それとも発見と思索の場なのか。
僕は僕自身が涙もろいからかもしれないが、涙はさほど価値がないと思う。
戦争で血を流す子供たちを映すテレビの前で、たとえプール100杯分の涙を流しても、戦争は終わらないと思うからだ。

そこで発見と思索を重視する学芸員が、最近、頑張っているのが、答え(=わかりやすい物語)を提供するのではなく、答えがない問いを考えさせる場を提供しようという方向性である。
この新しい試みが、愚劣な誘導尋問に終わることなく、来館者の真の知的水準の向上に通じるものになることを祈ろう。

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