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獣人、消えるべし -変身

昨日は、昔の教え子であるアラサー美女二人と、赤ちゃんひとりと、一緒にランチをした。
新宿の「楽」というお店のお座敷で、お豆腐料理のフルコース。
お豆腐でおなかいっぱいになる。

およそ10年ぶりの再会。
彼女らによると、西願は、昔はもっと痩身で筋肉があったと。
別言すれば、今は太って脂肪が目立つと。

実際、現役世代から外れれば外れるほど、贅肉がつき、無責任になり、穏やかになる。
かつては「撃てるものなら、どこからでも撃ってみろ」と目立つシャツを着ていたが、
最近では、まるでクロコ。黒、紺、グレーが主となる(それでも靴下だけはまだ赤いが)。

教え子たちは、西願がもう獣人(オス)ではないことに気づく。
たしかに剃刀のように攻撃的な毒舌でもって声高に、何から何まで、理事長からFランクの学生までを斬っていた、そんな野郎はもはやいない。
赤ちゃんの前では小さい声で話さなければいけないことくらいは、学んだ。ただのオジーサンがいるだけだ。

さらに、どうやら教え子たちは、西願から女の匂いがしないことにも気づいたようだ。
実際、もうアヴァンチュールには飽きた。
もう「いい子だねえ。可愛いよ。ギューッとしてあげる。とっても可愛いよ。頭、撫で撫でしてあげる。ほんとに可愛い。僕がついているからねえ」とか言っているのに疲れた。
もう嘘に傷つきたくない。

畢竟、諦めを学んだのだ。
自分ひとりの力でできることの限界を学んだのだ。
ほんとうに思うことを言う、ただそれだけが残された務めだろう。

例えば、「育児が楽しい!」と言う母親に、
それはあたりまえではない、特殊な能力だから、その点を忘れないようにと、アドヴァイス。実際、無理することなく、赤ちゃんと一緒にお遊戯ができたりお歌を歌えたりするのは、誰でもできることではない。できない女の人も沢山いるし、できないのが悪いわけではない。
ただ持って生まれた才能として、赤ちゃんと遊ぶ能力があるだけだ。その能力があるひとはそれを十二分に用いるべきだし、ないひとはそれとは別の才能がおそらくあるのだから、それをふくらませれば良いだけのこと。

そもそも戦友たちとはさほど言葉がいらない。
例えば階段でベビーカーを下ろすとき、目線だけで、僕のカバンは預けられ、赤ちゃんは母親が抱っこをして、そして僕がベビーカーを運ぶ。そういう一連の動作がスムーズに阿吽の呼吸で行われる。
いいもんだ。

また会おう。

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