論文精読:山下勝「粕取焼酎」(後編)

前編はこちら

後編では、山下勝氏の論文「粕取焼酎」のうち、明治・大正以降の粕取焼酎事情の部分をご紹介します。

0.仮説:近代は粕取焼酎の「全盛時代」?

当方は、この論文を読む前から、明治・大正時代は粕取焼酎の「全盛時代」だったのではないかという仮説を持っていました。
その根拠は、この時期に酒粕の発生量が飛躍的に増加したと考えられるからです。

明治・大正時代の政府は、富国強兵・殖産興業を推進するための財源として酒税に着目し、酒類への課税を強化するともに、研究開発の支援などによって増産を強力に推進しました。
その結果として、1871年(明治2年)に296万石だった清酒製造量は、1919年(大正8年)には588万石となり、約50年で倍増しました。
このような清酒製造量の増加に比例して、副生成物である酒粕の発生量も増加したことは間違いありません。

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出典:きた産業ウェブサイト(http://www.kitasangyo.com/pdf/e-academy/osake-statistics/osake_statistics_1805.pdf

また、政府は、酒税の課税強化の一環として、明治32年(1899年)に自家醸造を全面禁止し、これに伴い家庭や集落による「どぶろく」の製造が、企業による「清酒」へと移行しました。
こうした中で、どぶろくを多く製造していた地方では、清酒への移行に伴い、酒粕発生量の増加に拍車がかかったと考えられます。

酒粕発生量の急増を受け、その有効利用のために粕取焼酎の製造量も増えたであろうことは、想像に難くありません。

山下勝の論文「粕取焼酎」は、当方のこのような仮説に対して、まさに「目から鱗」となる様々な知見・情報を与えてくれました。

1.明治時代の粕取焼酎 

本項は、明治時代の粕取焼酎の実態を紹介している箇所です。
その冒頭に、当時の状況が端的に記された一節があります。

明治時代は粕取焼酎の全盛時代で、全国の殆どの酒屋で粕取焼酎の製造が行われていた。(中略)明治二十九年制定の酒造税法では、(中略)焼酎の定義は、次のように定められている。

酒税法第一条の六
第一項 焼酎とは清酒粕を蒸溜したるものを謂ふ
第二項 左に掲ぐる物品を原料として蒸溜したるものは焼酎と看做す
一、清酒 二、濁酒 三、味淋粕 四、米、 麦、 粟、稗若しくは甘藷と麹及び水とを原料として発酵せしめ又は酒酵母を加へて醗酵せしもの
 

これを見ると、明治末では焼酎は粕取焼酎が主であり、醪取焼酎は従に見られていたことは明らかである。

江戸時代には、米焼酎(球磨など)、麦焼酎(壱岐など)、芋焼酎(薩摩など)といった「醪取焼酎」の製造も始まっており、また、これら以外の雑穀焼酎が造られていた記録もあります。
しかし、これらの製造・消費は一部の地域に限らており、そうした中で粕取焼酎が、明治時代において全国的に製造・消費されていた唯一の焼酎だったと考えられます。

2.大正、昭和初期の粕取焼酎製造方法 

本項は、大正、昭和初期の技術文献をもとに、当時の製造方法を分析・整理している箇所です。

山下氏は、『日本酒醸造法』(大坂財務研究会、大正八年)を大きく引用し、当時の粕取焼酎製造の実態を明らかにしています。
(かなり長いですが、興味深い内容なので大きく引用します。)

『日本酒醸造法』には「原料の貯蔵は古酒桶を使用し板粕を打明けて丁寧に踏み固め蓋をし、一週間、長くて一ヶ月位で蒸留する。長期貯蔵の必要のある時は囲桶に一層丁寧に踏み付けて満量となし、上面を平らにし、紙を覆い表面に焼酎を少量散布して蓋をし、目貼り、コミを丁寧に施し貯蔵をする、期間は最大八ヶ月以内とする。(中略)長期貯蔵では五パー セント位も酒精が増加することがある。酒粕を蒸溜するには親指大に板粕を裁断して籾殻を混合する。昔は板粕の裁断は手先で細かくしたが、現在は諸種の裁断機(ロール式または金網式)を利用している。籾殻の使用量は酒粕十貫当り八百匁乃至一貫匁位が適当である。 蒸溜装置は蒸溜器と冷却器と釜との三つより成っている。蒸溜器は木製であり、円筒又は枠箱で造られ、大抵五層になっている。各一 層に十貫粕を入れる。各層には底に竹管を敷き、粕はこの上に載せる。甑の上枠と最下の甑枠はボルト仕掛けで堅くしめ、蒸気もれを防ぐ、甑の上部から馬頭とよばれる木製の導管で蒸気を導き出し、冷却用蛇管に接続する。蛇管は普通銅製錫引きである。蒸溜において注意すべきは火力 (蒸気力)であり、あまり強いと酒精分を逸したり、溜酒 が混濁したりする恐れがある。蒸溜当初は七十五度内外であるが、漸次酒精分は減少し終結近くには五度内外になる。 初溜の一部は取捨てる。最終生成焼酎の平均アルコール濃度は三九・八~四〇・六度、又は六二・七~六七・六度で ある。蒸溜粕は農家の肥料とする。(中略)」と詳しい具体的な記載がある。

そして、この『日本酒醸造法』を始めとする各種文献の内容を基に、明治・大正時代の粕取焼酎製造技術の変遷を、次にように整理しています。

明治から昭和初期までの粕取焼酎の製造技術の推移を見ると、明治時代は兜釜を使用し、蒸溜を繰り返し、高濃度アルコールの製造する灘、伊丹等の先進地と一回の蒸溜の みで高濃度焼酎を製造していなかった地方とが混在していた。
大正になると柏の貯蔵により粕の酒精分を増加させるような工夫がされ(柏の貯蔵によるアルコール分の増加法は明治の書物にはなく、大正初期の書物には記載されているので、明治後期頃から始まったと考えてもよいと思われ る)、また金属製蒸溜器が増加し、木製の甑を使用してい るものも冷却部分が金属蛇管になり改良されている

上記から、明治時代中期までの粕取焼酎製造法は、江戸時代初期の『童蒙酒造記』などに記載さている手法からほとんど変わっていないことが分かります。
そして、明治時代後期から大正時代にかけて技術改良が進められたことが読み取れます。

(参考)江戸時代初期の『童蒙酒造記』に記載された粕取焼酎製造法

実は、このような技術進歩のプロセスは、現役の正調粕取焼酎の製造設備にも継承・反映されています。
以下では、各時代の技術を示す3つの実例をご紹介します。

江戸時代~明治時代中期の「カブト釜」スタイル
:福岡県久留米市の杜の藏(銘柄は「常陸山」、「弥久」)

杜の藏の蒸留器は、木製の丸型蒸籠の上に銅製冷却釜が載っています。
その形状は『童蒙酒造記』の記載内容とほぼ同じであり、江戸時代からの技術的な流れを受け継ぐものだと言えます。

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出典:杜の藏ウェブサイト
http://morinokura.co.jp/info/

▼明治時代後期~大正時代前期の「木製蒸留器+冷却器」スタイル
:鳥取県米子市の稲田本店(銘柄は「枯草」)

稲田本店の蒸留器は、木製の角型蒸篭と、独立した蛇管式冷却器で構成されています。
その形状は、前述の『日本酒醸造法』の記載内容とほぼ一致しており、明治時代~大正時代前期のスタイルを継承していると言えます。

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出典:稲田本店資料(写真は当方撮影)

▼大正時代後期の「金属製蒸留器+金属製冷却器」スタイル
:栃木県大田原市の天鷹酒造(銘柄は「天鷹」)

天鷹酒造の蒸留器は、丸型の金属製蒸篭と、四角い金属製の箱に収まった蛇管式冷却器で構成されています。
全体が金属製であり、大正時代後期以降に主流となったスタイルだと言えます。

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(写真は当方撮影)

山下氏の論文を読んだことにより、正調粕取焼酎の製造設備の違いを技術の進歩とともに理解できたことは、この上ない収穫でした。

3.大正、昭和時代の粕取焼酎評価

本項は、大正時代以降の社会動向や酒類全般の需要動向を踏まえつつ、「粕取焼酎が衰退していった経緯」を整理している箇所です。

まず、大正初期のデータが示されています。

粕取焼酎の全盛期は江戸時代末期から明治、大正時代迄で、この頃は全国の殆どの酒蔵では粕取焼酎を製造するのが普通であった。大正初期の清酒は年間四〇〇万石前後つくられ、それから出る粕が十五万トンで、その約半分が焼酎の原料として使われ、全国で約一万キロ リットルの粕取焼酎が生産されていた
(中略)
大正二年には全焼酎における粕取焼酎の割合が二十五・九バーセントであった。

以上から、大正時代初期の清酒・焼酎製造量は、以下のように整理されます。
・清酒製造量:約七十二万キロリットル(前記の約四百万石を換算)
・焼酎全体の製造量:約四万キロリットル
・粕取焼酎の製造量:約一万キロリットル

「ん?…粕取焼酎が意外と少ないぞ?」と思われるかもしれませんが、実は、大正時代初期には既に粕取焼酎の衰退が始まっていました。

山下氏の論文では、明治時代後期以降の粕取焼酎の衰退の背景・理由として、次の二点を挙げています。
①連続蒸留器で製造された焼酎(=新式焼酎)のシェア拡大
②消費者の嗜好の変化(淡白な香味へ)

明治二十八年の連続蒸溜機の日本への導入に引続き、高濃度の焼酎(アルコー ル)の輸入が増え、更に民間工場への連続蒸溜機の普及につれて、大正中期には、高濃度のアルコールが低価格で多量に出回るようになり、粕取焼酎の用途が減少し始め、大正中期から昭和にかけて、粕取焼酎の生産が減少を始めた。
(中略)
この頃の粕取焼酎と称した焼酎は、連続蒸溜機で生産され た酒精に少量の粕取焼酎を添加し、香味を粕取りらしくしたものが主流で、純粋の粕取焼酎は非常に少なかった。このことは、粕取焼酎の濃い香味が嫌われ、淡白な香味が好まれ始めたことによるものである。

当方としては、上記の内容に、二つ追加したい事項があります。

一つ目は、「清酒の腐造醪を原料とした焼酎の製造拡大」による影響です。

安全醸造の技術が確立していなかった昭和初期以前は、まだまだ清酒の腐造が多く、その救済手段として腐造醪を蒸留した焼酎製造が行われていました。
特に、大正3~4年の「大正の大腐造」では、大量の醪取焼酎が製造。販売されたことにより、焼酎市場が大きく混乱しました。
この頃には東京や大阪などに出荷されるようになっていた薩摩焼酎や球磨焼酎は、腐造醪取焼酎によってシェアを奪われ、深刻な販売不振に陥ったそうです。
(余談ですが、この危機が、薩摩焼酎、球磨焼酎の近代化と酒質改良を促したという側面もあるそうです。)

清酒の腐造醪はそのままでは商品にはなりませんが、蒸留すると不快な香味はほぼ無くなり、あっさりとした飲み口の焼酎となるそうです(飲んでみたいですね…)。
大正時代の人々は、新たに市場に投入された淡白な香味の新式焼酎(連続蒸留器による焼酎)や腐造醪焼酎に馴染んでいき、これらの消費が拡大するにつれて、粕取焼酎の消費量が減少したと考えられます。

もう一つ、大正時代の粕取焼酎に関して追加したい事項とは、「都市部と異なる地方の状況」です。

大正時代の大量交通・流通手段と言えば「船と鉄道」ですが、このうち鉄道は発展途上にありました(参考として、大正6年の鉄道網を示します)。
このことから、大正時代の新式焼酎や腐造醪取焼酎の流通は、沿岸部の大都市や鉄道幹線沿いに限られていたと考えられます。

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出典:ウェブサイト「轍のあった道」

加えて、農村地域における粕取焼酎製造は、焼酎粕の肥料利用を通じて農業と深く結びついており、都市と比べて衰退しづらかったと考えられます。
以上2点から、当方は、大正時代~昭和戦前までの農村部では、まだまだ粕取焼酎の製造・消費は堅調であり、本格的な衰退が始まったのは昭和の戦後ではないかと推測しています。

4.戦後の粕取焼酎の動向

続いて、昭和時代の状況を整理している箇所です。

生産の減少した粕取焼酎は、昭和になり庶民の為のアルコール飲料としての価値を吹き返した。特に、第二次大戦後(昭和二十年~三十年)の食料難時代には、粕取焼酎は合成酒と共に安価なアルコール飲料として庶民の喉に大いに貢献するようになったが、昭和三十年頃から、食料が豊富になり、各種アルコー ル飲料、特に清酒、ビール、ウイスキー等が豊富に市場に出回るようになると、合成酒と共に粕取焼酎は粗悪酒の代表にされ、その消費は急減し、市場から淘汰され、合成酒、アルコール製造会社の倒産が相次ぐ事態(昭和三十四~六年頃)となり、粕取焼酎も市場の片隅に追いやられる事となった。
大正二年には全焼酎における粕取焼酎の割合が二十五・九バーセントであったのが、昭和四十八年には僅かに一·五パーセントに激減してしまった。

粕取焼酎のイメージ低下に関しては、上記とは別に、第二次世界大戦後において出回った粗悪な密造焼酎「カストリ」の影響が指摘されています。

「カストリ」とは、主にサツマイモ、麦、時には正体不明の原料により製造された密造酒の総称です。
酷い事例では、メタノールが加えられた燃料・工業用アルコールを使ったものまであり、こうした闇酒による中毒事故も多発していたそうです。
外池良三『世界の酒日本の酒ものしり辞典』では、「カストリ=粗悪な蒸留酒」というイメージが定着した影響で、決して粗悪でない本来の粕取り焼酎まで、誤解によってイメージダウンした時期があると指摘されています。

一方で、現代のいち消費者として、近代と変わらぬ味わいの正調粕取焼酎を味わってみると、これが現代の消費者の嗜好に合致するとは到底考えられません(私はその個性的な味わいを愛していますが、それとは別の話です)。
当方としては、「カストリによる粕取焼酎イメージダウン説」にロマンを感じつつも、衰退の主な原因はあくまで「味わいと消費者嗜好の不一致」であると考えます。

5.おわりに

論文の最後は、山下氏の熱い言葉で締めくくられています。

(粕取焼酎は)日本の酒類の歴史の中では江戸初期から大正時代まで三百年以上に亘っ て、酒類の高級品として存在し続けており、貴重なアルコー ル飲料として社会に受け入れられ、市場でも他の焼酎類、酒類よりも良酒として高い評価を受けていたのである。それが昭和三十年頃の僅かの期間に粗悪酒の代表にされ、現在もその評価のままになっているのは、誠におかしいと思われる。近代日本の酒類市場において永年に亘って日本人に愛好され、高く評価されていた粕取焼酎がもう一度その価値を認められる日が来てもよいのではないかと思われる。

いやあ、素晴らしいですね。ありがとうございました。

この論文「粕取焼酎」は、当方が知る限り、粕取焼酎をメインテーマとした唯一の通史的資料です。
これを精読したお蔭で、これまで持っていた断片的な情報がつながり、また、多くの疑問が解消されました。

その一方で、逆に疑問が広がった部分もあります。
その最たるものが「粕取焼酎の地方史」です。

これまでのnote記事でも言及してきた通り、現存する(正調)粕取焼酎は、地方ごとに異なる文化を持っています。
例えば、福岡県・佐賀県・大分県にまがたる筑後平野では、他地域と比べて粕取焼酎を製造する酒蔵が多く、当地の稲作と結びついてエコシステムが形成され、また、梅酒の原材料としても親しまれてきました。
福島県会津地方では、飲用に加えて、当地の特産物である「身知らず柿」の渋抜きに利用されてきました。
島根県出雲地方では、やはり飲用に加えて、かまぼこ(あご野焼き)や奈良漬けの原材料として利用されてきました。

今後は、山下氏の「ナショナルヒストリー」の業績を足掛かりとしつつ、当方なりに「ローカルヒストリー」を探求し、地域文化としての正調粕取焼酎の復権に少しでも貢献できればと考えています。

<了>

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