2022年頭ご挨拶:布の歴史と粕取焼酎

遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。
今年も正調粕取焼酎をはじめとする日本の蒸留酒との付き合い、そして皆様との交誼を益々深めていきたいと考えています。
どうそ宜しくお願い申し上げます。

年末年始は兵庫県の実家に帰省し、日中は大掃除や息子たちの相手で賑やかに過ごし、夜は落ち着いて飲食と読書を楽しんでいました。
その間に読み終えた一冊、永原慶二『苧麻・絹・木綿の社会史』という本がとても素晴らしい内容であり、これを起点に粕取焼酎ついての思索を深めることができました。
年頭のご挨拶がてら、この本と思考の内容をご紹介します。

◆永原慶二『苧麻・絹・木綿の社会史』の概要

永原慶二氏(19222004)は、日本中世史(鎌倉・室町時代)の大家として知られ、私もこれまで、いくつかの書籍・論文を読み、感銘を受けてきました。
今回読んだ『苧麻・絹・木綿の社会史』は、永原氏が手掛けてきた日本の繊維産業史の研究の集大成であり、同時に遺作に当たるものです。

内容説明
前近代の日本人の三大衣料原料であった苧麻・絹・木綿。その生産はどのように行なわれ、民衆の暮らしと関わったのか。これまで染織史・服飾史・織物業の視点から語られてきた「衣」の歴史を、技術・生産・身分・貢租と商品化などを総合的に追究し、三本の糸を手繰りながら、これまで見えなかった民衆の生活史・社会史像を織り出した畢生(ひっせい)の書。

吉川弘文館ウェブサイト
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b34627.html

最初に、布と粕取焼酎の関係についての考察の材料として、本書に記載されている絹・苧麻・木綿の歴史の要点を整理します。

<絹>:蚕の繭を原料とする繊維
滑らかな手触りと、色鮮やかに染まることが持ち味。耐久性はいま一つであり、実用的な衣服や道具には向かない。
古代から、身分制衣料(貴人であることを示す衣服)として普及。
繭から生糸を作り、それを織って布を製造したほか、繭を引き裂いた「絹綿(真綿)も保温材として重要だった。
蚕のエサとなるなる桑の栽培から、蚕の飼育、生糸や絹綿の製造に至るまでの工程が多岐にわたるため、江戸時代より前は貢納物としての生産が大半であり、商品としての流通量は僅かであった。

<苧麻>:カラムシ(野生植物)又は大麻(栽培植物)の繊維
原材料が山野に豊富、繊維が丈夫といった長所がある。また、吸水すると固く締まるため生活道具に適する。
一方で、肌触りが悪い、保温性に乏しい、伸縮しない、色鮮やかに染まらない等の短所がある。
古代から、貴人から庶民までの衣料や、生活道具の素材として普及。
収穫したカラムシ・大麻の茎から繊維を取り出すのに手間がかかり、また職人技が求められるため、大量生産は困難であった。
一部の産地(越後国など)では商品作物として生産されるようになったが、全国的に見れば自給生産がほとんどであった。

<木綿>:綿花の繊維
苧麻に比べて、肌触りが良い、吸水性・保温性に富む、伸縮性がある、色鮮やかに染まる等、様々な優れた特性を持つ。
古代の日本では綿花が本格的に栽培された記録は無い。
室町時代に朝鮮から盛んに輸入されるようになり、戦国時代に武士などの間で普及、国内生産も開始。
江戸時代に入ると、関東・東海・西日本で、農家の販売商品として綿花の栽培・綿織物の生産が広まり、苧麻に変わる各層の衣料、生活道具の素材として爆発的に普及した。

ここで注目したいのは、室町時代後期から江戸時代にかけて繊維産業に大きな変革が生じたことです。
それは、「苧麻から木綿」という繊維の変化と、国産木綿の普及による「繊維供給量の著しい向上」の二点です。

◆「布の歴史」と「酒造りの歴史」の共通性

布は、酒造りにおいても重要な道具です。
特に、粕取焼酎の関連を踏まえれば、搾り工程で使用される「濾し布」が注目されます。
近代化される以前の搾り工程では、醪を布製の酒袋に詰め、自然の重力又は加圧することにより、清酒と酒粕に分離していました。

清酒(=酒粕)の歴史を簡単に振り返ってみると、繊維の歴史と同じく、室町時代後期から江戸時代にかけて大きな変革が生じたことが伺えます。

<清酒=酒粕の歴史>
【奈良時代】
・古くから「澄酒」は存在し、その手法は自然沈殿又は布による濾過だと考えられている。
【平安時代】
・「延喜式」造酒司の章では、酒造りの道具の中に、「篩料絹五尺」、「糟垂袋三百二十条」などの記述があり、酒を濾過するために使用された布だと考えられる。
(参考:https://foocom.net/column/ise/16030/
【室町時代】
・14世紀中頃~15世紀後半に創業したとみられる京都の酒造遺跡から、天秤型搾り機(布を用いる搾り設備)の痕跡が発見された。
(参考:https://www.asahi.com/articles/ASMCS6F2PMCSPLZB00J.html
【江戸時代】
・江戸時代前期(17世紀)には、伊丹、池田、奈良などの銘醸地で広く清酒が製造されるようになった。
・この頃の伊丹の鴻池家の家伝に、「主人を恨んだ番頭が、火鉢の灰を酒桶に投げ込んで逃げたが、それが幸いして上々の清酒になった」とあり、布に加えて炭による濾過も行われていたことが伺える。

上記のうち、室町時代(14世紀中頃~15世紀後半)の酒蔵の搾り工程で使用されていた布は「苧麻」だと考えられます。
「絹」であった可能性も否定できませんが、その希少性や、濾し布としての適性の低さを踏まえれば、現実的とは言えないでしょう。
また、「木綿」については、当時は朝鮮などから輸入される高級品ということで、酒造などの産業には普及していなかったと考えるのが自然でしょう。

一方、江戸時代の搾り工程で使用されていた布は主に「木綿」だと考えられます。
江戸時代の上方の酒造業は、江戸という一大消費市場への供給を契機として、生産の質・量を飛躍的に高め、工場制手工業として発展していきました。
酒袋の素材としては苧麻でも問題ありませんが、身近なところで豊富に出回っている木綿を使ったと考えるのが自然でしょう。

以上から、室町時代後期から江戸時代にかけての木綿の爆発的普及と、清酒の大量生産(=酒粕の安定発生)への道のりは、実は軌を一にしていると考えられます。

◆「布」と「蒸留」が生み出した粕取焼酎

さて、ようやく粕取焼酎の登場です。
これまで、「正調粕取研究note」では、専ら「蒸留器・蒸留技術」に焦点を当て、歴史の探求を行ってきました。
しかし、今回の読書と思索を通じて、これだけでは片手落ちだなという印象を強く持ちました。

日本古来の醸造酒が、繊維革命(苧麻→木綿)によって「清酒」へと脱皮したという前提が無ければ、いくら海外から蒸留器・蒸留技術が入って来たとしても、粕取焼酎が生まれることは無かったでしょう。
一方、醪取焼酎(米焼酎、芋焼酎、芋焼酎など)は、このような関係性が小さく、繊維革命が無かったとしても誕生したと考えられます。
「布」は清酒と酒粕を分かつだけはなく、粕取焼酎と醪取焼酎を分かつと言えるでしょう

余談ですが、東北地方の清酒の発展が遅れ、どぶろく文化が残存した要因の一つとして、繊維の影響があるかもしれません。
温暖な気候を好む木綿は、関東~西日本で栽培されるようになりましたが、東北や北陸の気候には適していませんでした。
江戸時代の東北・北陸地方では、庶民の衣服や生活道具は依然として苧麻が主流であり、木綿は西日本から購入する「贅沢品」でした。
このような状況では、酒造業が大量の布を使用することは難しく、それ故どぶろく文化が残存したのではないでしょうか。

なお、東北・北陸地方には、新潟県小千谷市の「越後上布」、青森県津軽地方の「こぎん刺し」など、苧麻製の優れた伝統工芸品が継承されています。
最後に、後者についての興味深い歴史をご紹介します。

津軽こぎん刺しの歴史
制約と津軽こぎん刺し

津軽こぎん刺しとは青森県津軽地方に伝わる伝統的な刺し子である。
北国、津軽では綿の栽培が困難なため一般に使用される衣服の多くは麻布でできていた。
また、享保9年(1724)に出された「農家倹約分限令」により農民は仕事着はもちろんのこと、
被り物、肌着、帯に至るまで細かく規制されていた。

用の美
木綿の着用を許されなかった農民は麻布を重ねて麻糸で刺した着物を普段着としていた。
農作業では重い籠を背負うので擦り切れやすい肩や背中を糸で刺すことにより摩耗を防ぎ、
また、雪国津軽の冬は麻布だけでは寒さを防ぐことはできず、
糸で布目をびっしり刺すことで保温効果も高めていた。
津軽こぎん刺しは農民自身が体を守るために限られた資材と厳しい社会制約の中で
補強と保温を目的に作り出された知恵の結晶なのである。

出典:kogin.netウェブサイト
https://kogin.net/rekisi.html

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私自身、正調粕取焼酎の「生活文化・技術」としての側面に強く惹かれ、これまで愚にもつかない探求を続けてきました。
この年末年始の読書と思索で、それが飲食の分野を超え、異なる方向から生活・生業を支える「繊維・布」に及んだことに驚き、まだまだ世界は広がるものだなと感動を新たにしました。

この勢いに乗って、今年も引き続き、自分の知的好奇心、先人の教え、そして皆様からの刺激を頼りに、正調粕取焼酎の探求を続けていきたいと思います。

<了>

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