(続)「粕取前線」北上の足跡を追え!! ~近江商人の足跡と蒸留技術伝播の再検討~

今年(2022年)は、これまでの断片的な研究成果を統合し、粕取焼酎の「通史」を記述することを目標としています。
まだまだ研究材料は不十分、かつ当方の考証も稚拙であり、良い成果を出せるかどうかは疑問ですが、ひとまず全体を形にして、後から質量を充実させていければと考えています。

その第一歩として、年明けに、清酒と酒粕を分かつ存在としての「布の歴史」について考察を行いました。

そして、第二弾である今回は、粕取焼酎蒸留技術の国内伝播の鍵を握る「近江商人」をテーマとして取り上げます。

■過去記事の振り返り

実は、近江商人については、一昨年に下記の調査・考察を行いました。

この記事は、福島県会津地方の農業技術書である『会津農書』(1692年)に「焼酎粕」の記載が見られることに着目し、焼酎蒸留技術がどのように伝播したかを考察したものです。
その結論として、僭越ながら「近江商人が焼酎蒸留技術の伝達を担った」という独自の説を提唱しました(以下、ダイジェスト)。

豊臣秀吉の命で、蒲生氏郷が近江国日野から会津に転封したことで、近江日野商人が会津に進出し、両地を往復する途中の関東地方に、「千両店(せんりょうだな)」というネットワークが張り巡らされました。
京のすぐ東に位置する近江は、室町時代に僧坊酒「百済寺樽」が幕府に対して献上されたり、「大津酒」が京の酒造業者の脅威となったことが記録されているなど、当時の酒造技術の先進地域でした。
その近江と会津との間で、継続的な人の往来、それも商才にたけた近江商人が動いていたとなると、このルートで当時最新の酒造技術が伝わった可能性は十分にあると考えられます。
そして、この会津と近江のルート上に位置する「北関東・東関東(栃木・茨城・千葉)」は、正調粕取藏が数多く分布するエリアです。
栃木県では、現在も天鷹酒造、渡邊佐平治商店、西堀酒造が正調粕取焼酎を造り続けており、かつては他にも複数の蔵元がありました。
また、茨城県と千葉県は、現在こそ途絶えてしまったものの、平成初期まで複数の正調粕取蔵がありました。
このように、「近江商人の活動ルート」と「正調粕取藏の分布」が一致することから、ここに「近江商人が粕取焼酎蒸留技術の伝達を担った」という説を提唱します。

※元記事を一部改変・要約

本記事では、新たに読んだ書籍の内容に基づき、この自説を批判的に検証していきます。

■検証:日野商人と蒸留技術の伝播

その書籍とは、昨年6月に刊行されたばかりの満田良順『近江日野商人の歴史と商法』(サンライズ出版)です。

本書は、近江商人のうち江戸時代に活躍した「日野商人」を対象とし、詳細な調査・分析を行い、その実態を明らかにしています。
そして、これまで近江商人に関して広く流布してきた諸説について疑義を呈し、独自の新説を提唱しています。

なかでも注目されるのが、日野商人の発祥について、「蒲生氏郷の会津転封が近江(日野)商人の東国進出の契機となった」という説を退けていることです
その根拠として、日野商人による本格的な行商の開始が、蒲生氏郷の死後暫く経った江戸時代初期であること、そして、行商の目的地が会津ではなく北関東であったことを挙げています。

日野商人は漆器(日野椀)の行商から出発し、後に合薬(調合した薬)の販売に転じ、徐々に資本を蓄えていきました。
そして、享保年間(1716~1736)の飢饉によって経営の安定化を図る必要に迫られ、そこで行商先の関東・東北で豊富な米と、幕府の酒造株(当時の酒造免許)の「空き株」に着目し、酒造業を営むようになりました。
この記述から、『会津農書』が刊行された1692年の時点では、日野商人は本格的に酒造業を手掛けていなかったことが読み取れます。

つまり、会津への焼酎蒸留技術の伝播においては、近江商人は無関係であった可能性が高いことが明らかにされています。


一方、日野商人が北関東などで出店した酒蔵においては、江戸時代中期から「粕取焼酎」と「直し焼酎」(腐造醪の焼酎)が広く製造されていたことが記録に残っています。
では、この技術は誰がどのようにして広めたのでしょうか。そのヒントもまた、本書の記述にありました。

東国に進出した日野商人たちは、遅くとも元禄3年(1690)には「日野大番頭仲間」を組織し、以降約200年にわたって相互扶助ネットワークを維持しました。
近江国日野を本拠地とし、東国など遠方に店舗を構えた日野商人は、普段は売掛けで販売していました。
そして、組合の最大の目的は、遠方からの売掛金回収という困難な業務を、一括して効率的に行うことだったそうです。

大番頭仲間は、本拠がある日野と各地の往来の便宜を図るため、近江と東国を結ぶ主要街道(主に中山道)や、その周辺の宿屋・茶店を「日野商人定宿」「日野商人定休所」などとして指定したそうです。
この定宿・定休所の範囲は、北は奥州街道の須賀川宿から、南は京・大坂街道の大坂に及び、この範囲が日野商人のおおよその商いの場となったことが指摘されています。

出典:満田良順『近江日野商人の歴史と商法』(サンライズ出版)p203

ここからは当方独自の推測になりますが、地縁の絆で結ばれた大番頭仲間は、売掛金回収や情報交換などの他に、後進商人による遠方出店の経営支援・コンサルティングなども行ったのではないでしょうか。
なぜなら、日野商人が漆器から合薬、さらに醸造業に転換するタイミングが一致しており、また、日野商人の間で醸造業の事業内容がほぼ同じであるなど、経営ノウハウを共有・継承していた形跡が感じられるからです。
そこで、当方は、以前の説をバージョンアップさせ、(会津はさておき)北関東など東国における焼酎蒸留技術は、日野商人が大番頭仲間を通じて、「酒蔵経営パッケージ」の一環として普及したという新説を提唱します。

実際、当時の焼酎製造は、酒蔵経営の改善・向上に大きく寄与する技術だったと考えらえます。
粕取焼酎は、酒粕の有効利用であり、なおかつ焼酎粕を肥料として農地に還元するリサイクル技術でもありました。
また、直し焼酎は、当時はまだまだ多かった腐造酒を救済するための、リサイクル&リスクマネジメント技術でした。
さらに、当時の焼酎は飲用のみならず、消毒や気付け薬など医療にも用いられており、地方では貴重な物資でした。
このような価値を生み出す技術だったからこそ、日野商人が経営する酒蔵の間で焼酎製造が広まったのではないでしょうか。

■新たな発見:「医学・薬学と蒸留」のリンク

ところで、本書を読んでいるうちに、日野商人による「合薬」に興味が湧いてきました。
日野商人の活動は、江戸時代初期の「日野椀」(漆器)の行商で始まり、後により利益率の高い「合薬」(調合した薬)の行商へと変わりました。
江戸時代中期になると、彼らは行商をやめて酒蔵などを出店しますが、合薬の製造・販売は継承され、現在も日野にルーツを持つ製薬会社が複数あるそうです。

この「日野合薬」のパイオニアである正野玄三(1659~1733年)は、江戸時代中期に活躍した人物であり、京都の名医である名古屋玄医に弟子入りして医学・薬学を学びました。
日野に帰った正野玄医は、数多くの弟子を取り、弟子たちがさらに孫弟子を取り、日野の人々の間で広く医学・薬学の知識が共有され、「日野合薬」は「富山の薬」と並び称されるほどに成長したそうです。

そこで、正野源三が名古屋玄医から、医学・薬学の一環として蒸留を学び、日野にそれを伝えたという可能性が考えられます。
現代のイメージだと、「医学」と「飲料製造」は縁遠いように思われますが、当時はそうでもなかったようです。
例えば、江戸時代初期から中期の偉大な学者である貝原益軒は、中国から「本草学」(薬物学)を取り入れるに当たって、植物の効用についての射程を「薬」のみならず「日常の飲食物」にまで拡張し、我が国独自の「薬学+農学」という枠組みによって「大和本草」を記しました(1709年完成)。

ちなみに、会津への蒸留技術の伝播についても、この「医学・薬学」経由であった可能性が考えられます。
会津松平氏の二代藩主正経(まさつね)は、領民を疫病から救い、病気の予防や治療などを施したいとの願いから、1670年に薬草園を設け、各種の薬草栽培を試みました。
また、三代正容(まさかた)は、貞享年間(1684~1687年)に薬草園を整備拡充し、朝鮮人参を試植し、これを広く民間に奨励したそうです。
これらの出来事は、『会津農書』の完成(1692年)の直前に当たることから、これらの関係性について検証してみるのも面白そうです。

当方はこれまで、アジアの蒸留技術は「台所の蒸し調理をルーツとする生活文化である」という前提に立ち、調査研究を行ってきました。
しかし、今回の検証によって、そうした固定観念が打破され、「医学・薬学」方面への新たな視野が開けました。

粕取焼酎の歴史探求はまだまだ続きそうです。

<了>

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