【(仮)アル添の歴史・原案】後編:柱焼酎からアル添に至る系譜を探る

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後編:柱焼酎からアル添に至る系譜を探る

1 江戸時代:柱焼酎のはじまり

1-1 柱焼酎の目的

前編からの繰り返しとなりますが、江戸時代、日本酒の醪又は搾った清酒への焼酎添加(=柱焼酎)が行われるようになりました。
柱焼酎の最古の記録とされる『童蒙酒造記』などの記述から、その目的は「香味の調整(辛口化)」と「腐造・火落ち防止」であったことが伺えます。

「醤酎(焼酎)を薄く取り、揚前五三日前に一割程酷(もろみ)の中へ入る也。依風味洒として足強く候、醤酎香ハ酷に除く也。」

(当方現代語訳)「焼酎を少し取り、上槽の5日~3日前に一割程度もろみの中に加える。これにより酒の風味がきりっとして日持ちが良くなる、焼酎の香りは醪から取り除かれる。」

出典:『日本農書全集 第51巻 農産加工2 童蒙酒造記・寒元造様極意伝』

一方、明治時代以降の文献では、柱焼酎の目的として「腐造・火落ち防止」のみ言及されており、「香味の調整(辛口化)」は見当たりません(あくまで私が調べた範囲ですが)。
このような目的の変化が生じた理由は、辛口の日本酒を醸造する技法が進展し柱焼酎に頼る必要が無くなったためだと考えられます。
特に、19世紀前半の灘五郷における「宮水」の発見と「ぎり酛」などの技術の確立は、柱焼酎から「辛口化」の役割を奪った可能性があります。

酒造史研究者の堀江修二氏は、江戸時代に日本酒が「辛口化」した理由として、砂糖の普及による食べ物の「甘口化」があると指摘しています。
江戸時代前期、オランダ・中国との貿易によって本格的な砂糖の輸入が始まり、人々は砂糖の美味しさを知り、輸入量が増大していきました。
一方、貿易赤字の拡大に悩んだ幕府は、輸入代替としての国内生産を奨励し、江戸時代後期にはそれが軌道に乗り、庶民の食生活にもある程度普及していたようです。
経済学者の鬼頭宏氏は、18 世紀初頭から19 世紀にかけての一世紀の間に、砂糖の1 人当たり供給量が2 倍以上になり、明治初年までに1 人当り1 kg を超える水準まで引き上げられたと推計しています。
また、喜田川守貞『守貞謾稿』には、饅頭の餡が野菜から甘いあんこに変化していった様子が描かれているなど、当時の風俗書などからも「食べ物の甘口化」の様子が伺えます。

1-2 柱焼酎という用語の起源

ところで、「柱焼酎」の最古の記録とされる『童蒙酒造記』では、ダイレクトに「柱」という表現が用いられていません。
後世の書籍では、同書の「依風味洒として足強く候」という言い回しが発展して、「柱焼酎」という表現に至ったと解説されています。

しかし、個人的にはこの説に納得できず、「柱」という表現の直接の起源を探しています。
いまのところ、江戸時代後期の文献である『市中取締類集』に「柱焼酎」という用語を発見したことが、ほぼ唯一の成果です。
この文献は、江戸の町奉行所が、江戸の行政に関して参考となる書類を選んで編纂したものであり、年代は天保十二(1841)年から嘉永元(1848)年までとされています。
当該箇所を見てみましょう。

焼酎三斗代壱斗ニ付三拾五匁替但是は柱焼酎と唱酒精力を益候様諸味又は澄酒江加へ申候尤酒之上下ニ寄極上焼酎多く相用申候直段之儀は年々高下御座候

出典:『市中取締類集 遠国伺等之部
国立国会図書館次世代デジタルライブラリー)

自信が無いので細かい現代語訳は差し控えますが、大意は「柱焼酎というものがあって、これは酒の醪(諸味)又は搾った清酒(澄酒)にアルコール(酒精)を加えるものだ」というものです。

なお、これとは別に、江戸時代の酒造技術書で「柱造り」のような表現を見つけて大喜びしたのですが、その時控えを取り忘れてしまい、未だに再発見できていません。
何か手掛かりをご存知の方がいらしたら、ご教示頂けますでしょうか…

2 幕末~明治中期:混成酒の短い春

2-1 輸入酒精の増加と混成酒への利用拡大

時代は幕末に移ります。
ここからは、「酒造技術としての柱焼酎」や、「飲料としての焼酎」から、少し視野を広げていきましょう。

江戸時代の焼酎は、当時唯一の「高濃度アルコール」として、飲用以外に多方面で活躍していました。
下記は、山下勝氏の論文「粕取焼酎」からの引用ですが、ここでは「火薬原料、薬品類の製造研究」に注目します。

江戸時代の焼酎の用途として大きかったものは、
一、飲用、
二、外傷の消毒や気付薬等の薬用、
三、蜜融、南蛮酒、保命酒等の製造原料、
四、酒の辛さの調節用(柱焼酎)
等であった。その他、佐賀藩では、焼酎の用途として、火薬原料、薬品類の製造研究も行われている

出典:山下勝「粕取焼酎」

ペリー来航など欧米列強の進出による国防意識の向上は、火薬原料としてのアルコールの需要を増大させました。
例えば、薩摩藩主の島津斉彬が、火薬原料として芋焼酎の本格的な生産に乗り出したというのは、良く知られているところです。
一方で、開国によって欧米諸国と貿易が開始され、主に英国からアルコール(酒精)が輸入されるようになりました。

明治時代に入ると、軍事用に加え、医薬用や工業用としてのアルコールの需要も高まっていきました。
欧米諸国からの酒精の輸入に加え、国産化の動きもあり、明治10年前後に焼酎の再留や腐敗清酒の蒸留が行われた記録があるそうです。
しかし、連続式蒸留器によるイギリスの酒精と、カブト窯蒸留器による国産酒精では品質・価格とも勝負にならず、「輸入酒精」がアルコール市場を圧倒しました。

その後、潤沢に供給されるようになった輸入酒精が、飲用へと転用されます
木下敏昭氏の論文「アルコール業界の70年」には、明治時代の初期、「腐造及び火落ち防止のため、清酒業者がアルコールを添加した「混成酒」を作り始めた」とあります。
この「混成酒」は明治前期の酒市場を席巻したようで、酒文化研究所のウェブサイト「合成酒の物語」には、明治三一、三二年(一八九八、一八九九) ごろは混成酒の全盛時代で、アルコールの輸入額は年額三〇〇万円にものぼり、本来の清酒は影をひそめるほどであった。とあります。

念のため、混成酒のシェアがどの程度であるか、自分でも資料を当たってみました。
石川富士夫氏の論文「バイオエタノール産業を興した明治・大正・昭和の人達」によれば、「明治31年の混成酒は、前年の3.8倍にあたる47,471石が製造され」とあります。
一方、明治20~30年代の清酒の造石高は約400万石であったことから、混成酒の製造量は清酒の約1/100であったと推計されます。
この「清酒の1/100」という数字は一見「少ない」と感じられそうですが、以下の事情を考慮すればそうとも言い切れません

  • 当時はまだ鉄道が未発達だったため、混成酒の製造・流通は、輸入酒精が手に入りやすい貿易港と近傍の大都市(横浜・東京近辺、神戸・大阪近辺)に限られ、これらの場所ではシェアが高かった。

  • これらの大都市は政府の目が行き届きやすく、輸入酒精を用いた混成酒のシェ拡大が認知されやすかった。

  • 政府のニーズとしては、「清酒からの酒税の確保」と「軍事・工業・医療におけるアルコールの確保」が最優先であり、輸入酒精を用いた混成酒のシェア拡大は、国策を妨げる事態であった。

混成酒は安価であり、飲み手には歓迎されたようですが、政府にとっては頭の痛い存在でした。
そこで、混成酒からもきっちり徴税できるよう、明治29年に「混成酒税法」、明治34年に「酒精及酒精含有飲料税法」が発布され、後にはアルコールの輸入関税も引き上げられました。
これらの一連の国策によって「明治の混成酒」は大打撃を受け、急速に衰退していきました。

2-2 依然として深刻だった腐造・火落ち

明治前期における混成酒の増加と、同時に進んだ洋酒(ビールなど)の輸入量の増加は、清酒業界に大きな影響を及ぼしました。
危機感を持った全国各地の酒造家たちは、挽回のため「酒造改良運動」に乗り出しました。
この運動は、様々な目的や着眼点がありましたが、なかでも「腐造・火落ち対策」は中心的な課題だったと言えます。
当時の状況を分析した論文の一節を引用します。

学理応用を基軸とした酒造改良運動の課題は、(中略)清酒の海外輸出論や、酒造業の大工業論と結合して提起されたものであったし、またそれが政策的には殖産興業政策の一環として酒税政策とも結合して提起された運動であったというべきである。
しかし、他方ではこの時期の醸造技術水準の低位性のために、清酒の腐敗のもたらす国民経済的な意味での「空耗」損失の防止といった現実的な課題からも、酒造改良が提起されていた。
(中略)当時の未熟な技術水準のもとでの酒造業にあっては、造石高の半分も商品化しえれば良いといわれるほどであったから、清酒の「腐敗」問題は酒造業の中心的な技術問題であったことはうたがいえない。

出典:藤原隆男「1890年代における酒造改良運動の展開とその特質」

同時時、政府も「お雇い外国人」を招聘し、西洋の科学技術による清酒製造技術の向上を試みました。
特に「腐造・火落ち対策」の観点からは、英国人技術者アトキンソンによる火入れ(低温殺菌法)の理論化と、ドイツ人技術者コルシェルトによるサリチル酸の導入が特筆されます。
政府として火入れとサリチル酸添加のどちらに注力すべきか、激しい論争が交わされましたが、コルシェルトの主張が採用され、明治13年にサリチル酸の使用を認められました。
その普及はかなりのスピードで、明治20年刊行「日本酒改良実業問答」(大阪府)や、明治26年刊行「酒造家宝典」(長野県)などに記載されていることから、明治20年代には全国に広まったと考えられます。

一方、火入れはもともと灘・伊丹の酒造家が得意としていましたが、前記の酒造改良運動の一環として、地方の地酒蔵が灘から丹波杜氏を招聘したり、逆に技術者を派遣したりして習得に努める中で、地方の技術水準も向上していきました。
当時最新の道具である温度計の普及も、このような火入れ技術の普及を後押ししたと言われています。
政府はサリチル酸の添加を支持したものの、現場では火入れも併用されていたことが伺えます。

3 明治後期:国策と柱焼酎・アル添

3-1 消えた柱焼酎

さて、しばらく柱焼酎の話題が出てきませんでした。
実は、明治前期は、柱焼酎について言及された文献がほとんど見つかりません。

数少ない事例としては、前記の「酒造改良運動」の一環として編纂された、宇都宮三郎『醸酒新法』があります。
この文献における唯一の「柱焼酎」の文字は、愛知県亀崎の酒造家・伊藤七郎衛氏の醪経過表の注書きにありました。
その文言は「但し壓搾(圧搾)の後柱燒酎某量を加ふ」という素っ気ない内容です。
これだけでは、当時の柱焼酎事情が全く想像できません。

そこで、技術書ではなく、当時の法律に手掛かりを求めてみることにしました。
まず、明治8年制定「酒類税則」、明治13年制定「酒造税則」、明治29年制定「酒造税法」など、明治前期の清酒を対象とする法律及び施行規則等のうちウェブで閲覧可能なものを精読したのですが、柱焼酎について記載は見つかりませんでした。

一方、酒精(アルコール)関係の法律を調べると、明治26年制定の「酒精営業税法」では、その対象者を「酒精又ハ他物ト混和シタル酒精」とし、「混和」の一種として「清酒濁酒其他ノ酒類に混和シタル酒精」を挙げています。
つまり、明治26年に、清酒や濁酒に添加する酒精が課税対象になったということです。

また、混成酒の取り締まりを目的として制定された明治34年の「酒精及酒精含有飲料税法」では、「第一条 酒精及酒精ヲ含有スル飲料ニハ本法ニ依リ造石税ヲ課ス」とされています。
しかし、「第四条 清酒、濁酒、白酒、味淋、焼酎、麦酒ビール)及葡萄実ヲ以テ醸造シタル葡萄酒ハ本法を適用セス」とあります。
つまり、酒精(アルコール)を含む飲料は「酒精ヲ含有スル飲料」ですが、焼酎が添加された清酒・濁酒は「清酒・濁酒」に分類されていたことが分かります。

3-2 柱焼酎の再登場:明治38年改正酒造税法

暫く鳴りを潜めていた柱焼酎ですが、明治時代の後期に突如その名を現します。

明治38年の改正酒造税法において、清酒の定義として「清酒及び清酒と見做したものに其の容量百分の以内の焼酎又は酒精を混和したもの」という文言が追加されたのです。
ここで久々に柱焼酎が登場し、しかも、酒精(アルコール)添加と同列に記載されました。

法律第三号 酒造税法中左ノ通改正ス
第一条ヲ第一条ノ一トシ次ニ左(下)ノ五条ヲ加フ
第一条ノ二 此ノ税法ニ於テ清酒ト称スルハ米、米麹及水ヲ原料トシ醗酵セシメ又ハ酒酵母ヲ加ヘテ醗酵セシメ之ヲ濾過シタルモノヲ謂フ
左ニ掲クルモノハ清酒ト看做ス
一 前項原料ノ外麦、粟、玉蜀黍、稗、清酒粕又ハ焼酎ヲ原料トシ醗酵セシメ又ハ酒酵母ヲ加ヘテ醗酵セシメ之ヲ濾過シタルモノ
二 清酒又ハ清酒ト看做シタルモノヲ粕漉シタルモノ
三 清酒又ハ前二号ニ依リ清酒ト看做シタルモノニ其ノ容量百分ノ一以内ノ焼酎又ハ酒精を混和シタルモノ

出典:「酒造税法中改正加除・御署名原本・明治三十八年・法律第三号」(国立公文書館デジタルアーカイブ)
httpswww.digital.archives.go.jpDASmetaDetail_F0000000000000020181

なぜ、ここに来て突如、法律に柱焼酎・アルコール添加が再登場したのでしょうか?
この謎を解く鍵は、後の大正11年の文献『臨時財政経済調査会答申税制整理案』の記述にあります。

酒造税法に清酒の原料として焼酎を加へたるは、古来灘地方に行はるる焼酎の慣行を認めたるに依る。而して柱焼酎を添加することは、幾分酒精分を昂上せしむる結果を来すも之の主たる目的は濾過操作を容易ならしむると、滓下げを容易ならしむることに在り。

出典:『臨時財政経済調査会答申税制整理案』(大正十一年七月二十日答申)
(大蔵省編『明治大正財政史 第6巻』に収録) 

この記述から、明治時代の柱焼酎を取り巻く事情として、次のことが読み取れます。

  • 明治三十八年の法改正で焼酎・酒精添加が加えられた趣旨は、「古くから灘地方で行われてきた柱焼酎の慣行を法的に認めた」ということ。

  • 明治時代の灘における柱焼酎の主目的は「濾過操作と滓下げを容易にすること」であり、「アルコール度数向上による火落ち・腐造防止」は副次的であったということ。

さらに続きを見て行きましょう。

然れども元來故に税法の精神は無制限に多量の焼酎を添加せしむるの趣旨に非す。然らば幾何の焼酎の添加を認むべきやに付ては、法文上多少明確を欠くの嫌あり、或は清酒・製成後に混成し得る焼酎又は酒精の量との權衡上、醪容量の百分の一以内に限るべしとの説あるも、清酒に混和するは防腐の目的を以てするものにして、兩者共の目的を異にするを以て、之が權衡上百分の一に制限せんとするは理由なき(以下略)

出典:『臨時財政経済調査会答申税制整理案』(大正十一年七月二十日答申)
(大蔵省編『明治大正財政史 第6巻』に収録)

この箇所から、この文献と同時代(大正時代)の柱焼酎・アルコール添加を取り巻く事情として、次のことが読み取れます。

  • 焼酎・酒精の添加量が「容量百分の一以内」であることは、法文上多少明確を欠くと認識されていた。

  • 灘以外の地方では、清酒への焼酎・酒精の添加の主目的は「防腐(火落ち防止)」であり、その場合は「容量百分の一以内」に制限する理由が無い(=もっと高い方が良い)と考えられていた。

以上を踏まえ、明治三十八年の法改正で柱焼酎・アルコール添加が登場した経緯を整理してみます。

明治前期は、灘地方における濾過・滓下げの容易化を主目的かつ腐造・火落ち防止を副目的とした柱焼酎仕込み(①)と、それ以外の地域における腐造・火落ち防止を主目的とする柱焼酎仕込み(②)が継続されていました。
その一方で、柱焼酎の代わりに輸入酒精を少量用いるアル添仕込み(③)が生まれました。
そして③がエスカレートして、安価な輸入酒精を増量目的に使用した混成酒(④)が生まれました。

当時の政府のニーズは、問題がある混成酒(④)を規制し、一方で貴重な税収源である日本酒の振興を図ることにありました。
一方、柱焼酎仕込み(①②)とアル添仕込み(③)については、腐造・火落ち対策を担う重要な技法であり、その存続を図りました。

そこで、政府はまず、明治29年の「混成酒税法」、明治34の「酒精及酒精含有飲料税法」、さらにアルコールの輸入関税引き上げによって、混成酒(④)を衰退に追い込みました。
さらに、明治38年の改正酒造税法において、法的に宙に浮いていた灘地方の柱焼酎仕込み(①)、腐造・火落ち防止に有用な柱焼酎仕込み(②)及びアル添仕込み(③)の三者を統合し、清酒の製法として位置付けたました。

3-3 柱焼酎の落日

前述のように、大正時代から昭和初期においても、柱焼酎が防腐(火落ち防止)に有効であるとする文献が散見されます。
しかし、その頻度は少なく、内容的にも見るべきものはありません。

このように存在感が低下していった理由として、日露戦争(明治37~38年)の勝利と引き換えの深刻な財政難を踏まえ、国を挙げた酒造近代化によって腐造・火落ち対策が格段に進歩し、柱焼酎の存在意義が失われていったことが挙げられます。

明治後期の酒造近代化の概要を示します。
(明治37~38年 日露戦争)
・明治38年 酒造税法改正→柱焼酎・アル添の明確化
・明治39年 日本醸造協会の設立、サリチル酸の全国配布開始、協会酵母の製造・頒布開始
・明治40年 清酒品評会開始
・明治41年 山廃酛の開発
・明治42年 速醸酛の開発

この頃、火入れ・サリチル酸・柱焼酎のような「事後的」な腐造・火落ち対策ではなく、全ての工程で科学に基づく近代化が図られたことにより、根本から安全醸造が確立していったと考えられます。

さらに、大正時代以降の腐造・火落ち対策の動向と、柱焼酎の記録を追っていきましょう。

大正時代前期、「大正の大腐造」と呼ばれる全国的な腐造が発生しました。
その原因は、第一次世界大戦で欧州が戦場になったため、サリチル酸と醸造用乳酸の輸入が出来なくなったことだと言われています。
戦後、これらの輸入が再開して以降は腐造・火落ちは激減したようです。
以下、当時の状況が伺える論文の一節です。

古老に聽くに明治,大正の頃は腐造の事も各地に相當多くあり特に大正7,8年の腐造は激甚であつたと云われる。其の後速釀もと等の安全な新釀法が敷衍され,酒造全般の學理の解繹も進み近年は其の聲を聞く事は極く稀れとなり、技術者で實體を知る人の方が少い位に迄なつて來ていた。從つて其の原因や經過について研究する者も無く其の矯正法を考えるでも無く,至つて平穩裏に釀造期を送り迎えしていたのである。其處へ青天の霹靂の樣に突如として現われたのが昭和23酒造年度(昭和24年春)の全國的の大腐造である。

出典:山田正一「清酒もろみ腐造の研究」

大正10年頃から昭和23酒造年度までの30年近くは、全国的な規模の腐造が発生しませんでした。
そして、昭和初期の論文において、柱焼酎が「ロストテクノロジー」であることを伺わせる論調で紹介されています。

現行法第一條の二第一項で焼酎が清酒原料の二として規定せられてある以上清酒の仕込方法中に焼酎を使用し一定量の酒精分を含有せしめても差支がない譯になつて居るのだが、此の焼酎使用は税法設定當時は勿論昔から灘地方で行はれて居た柱焼酎を意味するのだと云ふことに解繹せられ(以下略)

出典:鹿又親「學主義工業酒造の確立に就て」

そして、昭和15年には、柱焼酎の記載があった酒造税法は廃止され、他の酒精及び酒精含有飲料税法、麦酒税法などとともに一本化された「酒税法」として再出発しました。
この条文には、柱焼酎に関して特筆すべき事項は見当たりません。

一方で、その直後、昭和16年発行の資料「税の問答:明解」に、次のような興味深い文章が掲載されています。

四 酒に柱燒酎の使用は許されるか
 酒を仕込むとき柱燒酎を使用したいと思ひますが許されるでしようか。
 特殊の醸造方法により製造する清酒で、柱焼酎を使用する地方的慣行があるときは共の使用量を定めて所轄税務署の承認を受ければ使用出来る事になつて居ますが、慣習が無いときは新に使用する事は許されません。

大蔵財政協会「税の問答:明解」

柱焼酎が細々と行われていたことが伺えると同時に、国としてはそのことを前向きに捉えていない様子が伝わってきます。

4 大正以降:米の需給とアル添

4-1 アルコールの新たな展開:合成清酒

大正時代以降、柱焼酎が廃れていった一方で、アルコールは「合成清酒の主原料」という新たな活躍の場を得ました。
合成清酒とは、アルコールに糖類、有機酸、アミノ酸などを加えて、清酒のような風味にしたアルコール飲料です。
このような技術が生まれた背景として、「需要」「供給」「前時代の記憶」という三つの側面があります。

ます、需要です。
「米余り」の現代では想像しにくいのですが、明治維新後の人口増加によって、明治20年代から米の国内自給率が100%を切るようになり、この状況は大正、昭和初期、そして戦後の昭和30年代まで続きました。
こうした「米不足」の時代において、日本酒業界は原料米の入手に困難を抱え、少しでも米を節約できる製法が求められていました。

続いて、供給です。
明治後期から大正にかけて、政府の規制によって酒精の輸入量が減少する一方で、国産酒精(台湾など植民地産を含む)の製造量が大きく増加しました。
国産酒精は、安価であり安定供給が可能、かつ無為無臭に近いということで、合成清酒のブレンドのベースとして高い適性を持っていました。
また、この頃には食品化学も発展し、清酒の成分の解明なども徐々に進んできていました。

最後に、前時代の記憶です。
明治前期の「混成酒」は、「米を使わずに日本酒らしきアルコール飲料を製造する」という意味で、合成清酒の発想を先取りするものでした。
また、酒造業者の間に「混成酒でボロ儲け」という当時の甘い記憶が残っていました。
合成清酒の開発・普及の基盤として、このような「明治の合成酒の記憶」が一定の役割を果たしていたと考えられます。

これらの背景が伺える資料を引用します。

明治二四、二五年(一八九一、一八九二)ごろからアルコールが輸入されるようになり、清酒にアルコールと調味料を加えた 増量清酒が出現するようになった。これが混成酒である。
(中略)この方法の記憶は残っていて、コメ不足の状況下で再開の願望が起こってきたようである。
(中略)コメを使用しない合成清酒の社会的要請がしだいに整ってき、多くの化学者が種々の製造方法を提唱した。(中略)各提唱者はいずれも著名な化学者達で、いわば当時の名士であって、その志すところ は純粋に国民の食生活を憂えてのことと思われる。

出典:大森大陸「合成清酒の物語」(酒文化研究所ウェブサイト)

今日、合成清酒は「まがいもの」や「悪者」として断罪されがちですが、当時の社会的背景や開発者の意図を知り、また、そこに至る系譜を紐解くと、当時としての存在意義や必然性に思い至ることができます。 

4-2 満州における「増量法」と戦後の「三増酒」

明治後期からの米不足は、昭和に入って戦時色が強まるとますます深刻化しました。
特に、満州では、大手酒造メーカーが多数進出していたものの、戦況の悪化による朝鮮半島からの移入が途絶し、原料米不足に悩まされていました。
一方で、本土からの酒の移入も途絶し、現地で酒を自給せざるを得ない状況となっていました。
このような状況を打開するため、昭和15年以降、酒精添加による日本酒の増量試験が行われました。

以下、この経緯が記載された長島長治氏の論文「満洲に於ける日本清酒壇量の方法を同顧して」の要約です。

  • 最初に、米以外の増産方法として、コウリャン、陸稲、キビについて研究をしたが、なかなか代用にならなかった。

  • そこで、ワインの醸造やン日本酒の腐造救濟で酒精を用いて品質の矯正や壇量を図るのにヒントを得て、酒精添加を試みた。

    • 第一次酒製造として、指定した製法で現地工場に製造を委託した、

  • 昭和十七年になって状況が悪化したので、酒精をもっと多量に添加する試験を行つた。

    • 官能検査の結果は、合成清酒に近いが醸造酒らしさはあるという評価だった。

  • この結果を踏まえ、昭和十八年の冬から軍需で約五千石、民需で約一一万石くらい製造された。

    • 酒造米の供給量は半減されたが、第一次酒、第二次酒を採用したために製造石数は平年度の八割くらいは作ることができ、各工場に於ても充分設備能力を獲揮することができ、非常に満足していた。

満州における「増量法」の成果を踏まえ、本土でも同様の試験が行われ、アルコールの添加量などのノウハウが蓄積されていきました。
そして、これが終戦後の「三増酒」(三倍増造酒)の開発・普及へと継承されました。

これ以降の歴史については、ご存知の方も多いでしょうし、情報源も豊富なので、簡単な記載に留めます。

三増酒は、戦災復興期の著しい米不足のなかで、酒を求める人々の需要に応えるための製法として歓迎され、国もその普及を後押ししました。
しかし、昭和30年代中盤には米不足が解消され、その後は食生活の洋風化によって「米余り」の時代を迎えました。
このような時流のなか、ほぼ無味無臭の醸造アルコールで増量している三増酒・アル添酒は、新世代の消費者から「個性に乏しい古臭い味」として敬遠されるようになっていきました。

日本酒の消費量が低迷するなか、昭和後期から平成の「地酒ブーム」や「吟醸酒ブーム」においては、アル添の目的が「増量・コスト削減」から「香味の調整(吟醸香の引き立て、味わいの軽快化)」へと変化していき、今日に至っています。
また、ごく一部ですが、味わいの個性化や伝統技法の復活の観点から、柱焼酎を復活させた事例も見られます。

5 後編まとめ:アル添の系譜(仮)

前編の「序 アル添をめぐる歴史認識の問題」で述べたように、柱焼酎と現代のアル添については、「日本酒(醸造酒)に蒸留酒を添加する一連の技術である」という捉え方と、「目的などが異なる別個の技術である」という捉え方があり、時に論争を呼ぶことがあります。

私は従来、後者の「別個」という捉え方に肩入れしていましたが、この調査で前者と後者をつなぐ系譜が見えてきました。
まず、三段跳びで言うところの「ホップ」となったのが明治前期の「輸入酒精」と「混成酒」であり、これらの存在が、アル添の目的を「腐造・火落ち防止」から「増量・コスト削減」に転換させる契機を生み出しました。
次の「ステップ」は、明治後期の近代酒造法の確立であり、これによって「腐造・火落ち防止」を目的とする柱焼酎・アルコール添加が衰退しました。
最後の「ジャンプ」は、「増量・コスト削減」を目的としたアルコール添加の勃興(合成清酒、増量法)であり、これは「米不足」という社会的背景から生じたものでありつつ、明治前期の混成酒の記憶とも繋がっていました。

以上を踏まえれば、柱焼酎と現代のアル添の関係性は、「同一視はできないものの系譜を辿ることはできる」ということなのかもしれません。

最後に、「アル添の系譜」の仮説を整理しておきます。

  • 腐造・火落ち防止技法の系譜

    • 江戸時代:柱焼酎

    • 明治前期:柱焼酎・輸入酒精の少量添加

      • 灘地方においては、濾過操作・滓下げの容易化が主目的に変化

    • 明治後期:近代酒造法の確立

    • 大正以降:腐造・火落ち防止目的の蒸留酒添加の衰退 

  • 増量・コスト削減の系譜

    • 明治前期:輸入酒精の多量添加(混成酒)

    • 大正~昭和初期:合成清酒<米不足>

    • 戦時中:満州における増量法の開発<米不足>

    • 戦後:三増酒<米不足>

    • 現代:増量・コスト削減目的の蒸留酒添加の衰退<米余り>

  • 蒸留酒添加による香味調整手法の系譜

    • 江戸時代前期~中期:柱焼酎(辛口化)

    • 江戸時代後期:辛口化目的の柱焼酎の衰退

    • 現代:香味調整目的の醸造アルコール添加(アル添)の勃興

      • 一部で柱焼酎仕込みの日本酒が復活

おわりに


思い付きで始めた記事ですが、執筆していてとても楽しい気分になりました。
前編は歴史のロマンに胸を膨らませる内容、後編は史料に基づく硬派な内容と、異なるテイストを味わえたことも楽しさの一因でしょう。

まだまだ情報不足、検証不足の箇所も多いですが、「(仮)アル添の歴史」の執筆に向けて良いたたき台ができたと思います。
焼酎の歴史ともども、今後も楽しみながら深め、広げて行ければと思います。

参考文献等

・吉田元校注『日本農書全集 第51巻 農産加工2 童蒙酒造記・寒元造様極意伝』農山漁村文化協会、1996
・吉田元『近代日本の酒づくり 美酒探求の技術史』岩波書店、2013
・堀江修二『日本酒の来た道 歴史から見た日本酒製造法の変遷 新装版』今井出版、2014
・喜田川守貞『近世風俗志 1―守貞謾稿 (岩波文庫 黄 267-1)』岩波書店、1996
・(論文)鬼頭宏「日本における甘味社会の成立-前近代の砂糖供給-』上智經濟論集 53 (1・2)、2008
・(論文)山下勝「粕取焼酎」酒史研究 第 20 号、2004
・(論文)木下敏昭「アルコール業界の70年」日本釀造協會雜誌 70 (5)、1975
・(論文)石川富士夫「バイオエタノール産業を興した明治・大正・昭和の人達」近代日本の創造史 4 (0), 3-15, 2007
・(論文)藤原隆男「1890年代における酒造改良運動の展開とその特質」岩手大学教育学部研究年報 34 51-77, 1974
・(論文)山田正一「清酒もろみ腐造の研究」日本醸造協会雑誌 54 (8),1959
・(論文)鹿又親「科學主義工業酒造の確立に就て」日本醸造協会雑誌 33 (4), 1938
・(論文)長島長治「満洲に於ける日本清酒壇量の方法を同顧して」日本醸造協会雑誌 45(2), 1950
・(講演録)第十六回廣島縣酒類品評會講話會講演要領 名譽會員 鹿又親
・(ウェブサイト)酒文化研究所 大森大陸「合成清酒の物語」https://sakebunka.sub.jp/archive/archive/history/001.htm
・(ウェブサイト)国税庁「租税史料叢書 第四巻 酒税関係史料集Ⅰ~明治時代~」https://www.nta.go.jp/about/organization/ntc/sozei/04.htm
・(ウェブサイト)「酒造税法中改正加除・御署名原本・明治三十八年・法律第三号」(国立公文書館デジタルアーカイブ)https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/Detail_F0000000000000020181
・(ウェブサイト)「酒税法・御署名原本・昭和十五年・法律第三五号」(国立公文書館デジタルアーカイブ)https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F0000000000000037599&ID=&TYPE=
・(ウェブサイト)「市中取締類集 遠国伺等之部 五ノ二」(国立国会図書館次世代デジタルライブラリー)https://dl.ndl.go.jp/pid/2588512
・(ウェブサイト)大蔵省編『明治大正財政史 第6巻』(国立国会図書館次世代デジタルライブラリー)https://dl.ndl.go.jp/pid/1449548/1/1
・(ウェブサイト)大蔵財政協会「税の問答:明解」(国立国会図書館次世代デジタルライブラリー)https://dl.ndl.go.jp/pid/1440159

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