論文精読:山下勝「粕取焼酎」(前編)

昨年末のことになりますが、正調粕取焼酎を始めとする酒類の知見をより深めるため、「酒史学会(しゅしがっかい)」に入会しました。

そして、さっそく下記の論文を取り寄せ、年末年始に精読しました。

・山下勝「粕取焼酎」
 第 20 号(平成 16 年 3 月刊行)収録
・西谷尚道「日本の焼酎-その税制と技術史について」
  第 25 号(平成 21 年 2 月発行)収録
・菅間誠之助「本格焼酎形成期にみられる清酒醸造技術の影響」
 第5号(昭和 62 年5月発行)収録

どれも素晴らしい内容でしたが、特に山下勝「粕取焼酎」は本noteと直接関係する内容が多く、多大な知見、そして刺激を得ることができました。
そこで、この論文への感謝を込めて、自分なりに精読するなかで感じたこと、考えたことをまとめていきます。

0.山下勝「粕取焼酎」の概要

当該論文の著者である山下勝氏は、味醂の研究者としてご高名な方であり、私もいくつか論文のを拝読したことがあります。
本記事で言及する論文「粕取焼酎」は、江戸時代の味醂の再現実験の一環として、味醂の原材料の一つである焼酎についての文献調査の成果をまとめたものです。
発表は今から約17年前(平成16年)ですが、焼酎史の解明の動きは非常に緩やかであり、まだまだ新鮮さを保っていると考えられます。

論文の目次構成は次の通りで、江戸時代から昭和までの多岐に渡る事項を含む充実した内容となっています。

<目次> 太字:本noteで言及する箇所
・江戸時代は粕取焼酎、醪取焼酎のどちらが多かったのか
・日本における粕取焼酎尾製造開始時期及び場所 ⇒ pickup!!(前編)
・粕取焼酎のアルコール度数はどれ位だったのか
・ランビキ
・江戸時代の柱焼酎のアルコール度数は何度位であったのか
・上焼酎とは
・粕取焼酎の香味
・焼酎は何回位再蒸留されていたか
・焼酎の用途 ⇒ pickup!!(前編)
・焼酎の値段
・明治時代の粕取焼酎 ⇒ pickup!!(後編)
・大正、昭和初期の粕取焼酎製造方法 ⇒ pickup!!
(後編)
・大正、昭和時代の粕取焼酎評価 ⇒ pickup!!
(後編)

あまりにも素晴らしい内容だったので、全文まるごと紹介したいところですが、著作権の問題(引用文献との主従関係)があるため、当方が関心が特に高い部分に絞りこみ、当方なりの解釈とともにご紹介します。

1 日本における粕取焼酎の製造開始時期及び場所

この「粕取焼酎の起源と歴史」は、本noteでも重点的に取り上げてきたテーマであり、当方の研究と対比させつつ、非常に興味深く拝読しました。

著者(山下氏)は、蜜醂と粕取焼酎は、戦国時代の終わり頃か江戸時代の初期に大坂から全国に広まったと推定している。
(中略)
当時、琉球には粕取焼酎はなかったと考えられるので、伝来したのは、醪取焼酎であったと考えられる。
(中略)
蜜醂製造技術が琉球から大坂へ伝来してから寛文年間までに、大坂で柏取焼酎の製造が始まり、各地に広がったと考えてよいと思わ れる。粕取焼酎の製造開始は、この期間中のごく初期ではなかったかと考えられる。

ここでは、山下氏の説を「琉球→大坂伝来・改良説」と名付け、当方の説と比較してみます。
(山下氏の本格的な学術研究と、当方の素人研究を比べるのは烏滸がましいことだと承知した上で、勇気を持って続けます。)

■粕取焼酎の「琉球→大坂伝来・改良説」(山下勝氏)
<①焼酎製造技術の捉え方>
・粕取焼酎の製造技術は、醪取焼酎の製造技術とは別のものである。
・琉球から伝来した醪取焼酎の製造技術をもとに、国内で粕取焼酎の製造技術が誕生した。
<②伝来時期・ルート>
・戦国時代の終わり頃から江戸時代の初期に、琉球から大阪に醪取焼酎の製造技術が伝わった。
<③国内伝播>
・伝来後、大坂にて、醪取焼酎の製造技術をもとに粕取焼酎の製造技術が誕生した。
・粕取焼酎の製造技術は、大阪から全国に広まった。

■粕取焼酎の「中国本土→九州→大阪伝来説」(正調粕取研究note)
<①焼酎製造技術の捉え方>

・東アジアに広く分布し、日本でも伝統的に用いられてきたカブト釜蒸留器は、粕取焼酎と醪取焼酎の製造を容易に切り替えられる構造である。
・中国の1500年前後の文献『宋氏養生部』に粕取焼酎と同じ製法で蒸留酒が造られた記録がある。
・粕取焼酎と醪取焼酎の製造技術の違いは小さく、まとめて「カブト釜蒸留器の伝播」として捉える方が適切と考えられる。
<②伝来時期・ルート>
・戦国時代に、中国大陸から九州に蒸留技術(カブト釜蒸留器)が伝わった。
・1500年代中頃に薩摩国で醪取焼酎が造られていた記録がある(ジョルジェ・アルバレスの報告書、郡山八幡神社の棟札)。
<③国内伝播>
・カブト釜蒸留器は、江戸時代初期までに九州から畿内(伊丹、灘など)に伝わり、当地で盛んであった日本酒製造と結びつき、粕取焼酎が製造されるようになった(現時点では根拠は確認されていない)。
・粕取焼酎の製造技術は、畿内の酒造地から全国に広まった。

※詳細は以下の過去記事を参照

当方に近い立場の論として、味醂研究者の蟹江松雄氏は、戦国時代末期に九州(博多)で粕取焼酎を使った蜜醂が造られ、それが畿内に伝わったという説を提唱しています

蟹江は、「神谷宗湛(博多商人)が黒田如水に慶長五年(一六〇〇)蜜醂酒を送っていること、『筑前国風土記』元禄十六年(一七〇三)に「福岡博多に焼酎をも多く製す」とあることから、神谷宗湛が黒田如水に慶長五年(一六〇〇)送った味醂酎は博多で生産され、使用された焼酎は粕取焼酎であったであろう」と述べている。

山下氏は、蟹江氏の説のうち「蜜醂が博多から大坂に伝来した」という部分に疑問を呈しつつも、粕取焼酎については「大坂よりも博多の方が先であるのは不自然ではない」としています。

焼酎の生産技術は、先進地である中国、朝鮮、琉球等から伝来し、蜜醂の生産技術は琉球から日本へ伝来したのであるから、仮に粕取焼酎の生産があったとすれば、大坂よりも博多の方が先であるのは不自然ではない。しかし、蜜醂は琉球から大阪への伝来とされ、博多から大阪への伝来とはされていない。
(中略)
慶長五年(一六〇〇)に博多で粕取焼酎を用いて蜜淋酎が生産されていたというのは大変疑わしい仮説であると思われる。

こうして両論を眺めると、どちらも粕取焼酎の伝来について十分な根拠を示すことはできておらず、決定打に欠けるという印象があります。

山下氏の論考は、「味醂」の立場からのものであり、粕取焼酎を主に「味醂製造の要素技術の一つ」として捉えています。
一方、当方は、粕取焼酎は、味醂の原材料となったことに先立ち、日本酒製造の副生成物を活用した蒸留酒であったと考えます。
今後は、この論文から受けた刺激を糧として、粕取焼酎を「主役」と見なす立場から、諦めずに粕取焼酎の歴史探訪を深めていきたいと思います。

2 焼酎の用途(江戸時代の粕取焼酎事情)

江戸時代の粕取焼酎の消費実態が伺える興味深い話題です。
まず、焼酎全般の用途として、以下のように記載されています。
当時唯一の「高濃度アルコール」として、多方面で活躍していたことがよく分かります。

江戸時代の焼酎の用途として大きかったものは、
一、飲用、
二、外傷の消毒や気付薬等の薬用、
三、蜜融、南蛮酒、保命酒等の製造原料、
四、酒の辛さの調節用(柱焼酎)

等であった。その他、佐賀藩では、焼酎の用途として、火薬原料、薬品類の製造研究も行われている。

続いて、酒屋(酒蔵)で製造されていた粕取焼酎についての記述です。

江戸末期、明治初期、中期には、(近畿地方の酒造地に加えて)東海地方では、殆どの酒屋は酒、粕取焼酎、蜜酬を製造しており、福岡、佐賀、会津地方でも明治時代の中、後期には、酒屋の大半は粕取焼酎の製造を行っており、一部の酒屋は蜜酬の製造も行っている。当時、酒屋が粕取焼酎を製造することは、全国殆どの酒屋で行われていたものと思われる。
(中略)
これらのもの(全国各地で製造された粕取焼酎)は、焼酎、蜜醂そのものを目的と して製造されたものもあるが、大半は、酒の火落防止、酒の甘辛の調節に使用されたものと考えられる。

上記の要旨は次の通りです。

①江戸時代には、粕取焼酎の製造が全国ほとんどの酒屋(酒蔵)で行われていたと考えられる。
②粕取焼酎の大半は、酒への添加(柱焼酎)に用いられたと考えられる。

山下氏の考察は、伊丹・灘を中心とする江戸時代の酒造史料の精読に基づいており、その点は頭が下がる思いです。
一方で、それ以外の地方については、参考文献として明治時代の文献が掲載されており、江戸時代の状況を直接調査したものではないようです。

当方は、本論文以外の情報源から、江戸時代の農村部には、伊丹・灘とは異なる粕取焼酎の文化と、それに応じた用途があったと考えています。
例えば、吉田元氏の「江戸時代の信州酒造業」(酒史研究11、平成5年7月)によれば、江戸時代の長野県中信州・南信地方では、農民が農閑期に酒屋から酒粕や腐造醪を引き取り、蒸留を行った記録が数多く残されているそうです。
このような「農民による焼酎蒸留」は、福岡県でも明治時代中期まで盛んに行われていたと伝えられています。

また、粕取焼酎と農民の関係は、焼酎の製造だけではなく、飲用、そして肥料としての再利用にも及んでいました。
農民たちは、自ら蒸留した焼酎を、日々の暮らしや祝祭のなかで楽しみました。
特に、田植えの後に行われる「早苗饗(さなぶり、さなぼり)」では、粕取焼酎が広く楽しまれ、今なお粕取焼酎が「早苗饗焼酎」と呼ばれる地域が多くあります。
そして、福島県会津地方の『会津農書』(1692刊行)や東海地方の『農家肥培論』(1830頃成立)などの農業技術書に書かれている通り、焼酎の蒸留粕を田畑の肥料として還元し、次回の農業生産に役立てるという「資源循環システム」を構築していました。

当方としては、山下氏の論文のおかげて伊丹・灘の実態を知ることができたことに感謝しつつ、引き続き農村部の実態調査に精力を傾けていきたいと考えています。

前編はここまで。
後編は明治・大正時代の焼酎事情の記述を精読していきます。

<続>

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