【愚者たるわたし。/まさに散らかる文 青紗蘭 】
私の中には、醜さがあり目を逸らしたくなる汚さがある。そして、愚者たるわたしがいることを認めている。
その代わり、得たものは。
美しいとは何か?というひとつの手がかりだ。醜さを知らないものは、美しさを見抜けないだろう。
私にとっての美しいものとは、懸命に生きるもの。伝えるもののこと。そのいのちだ。
何かが出来るかどうかだけで命を取捨選択するなら、また、その者もそうされるときがくる。
愚者たる私は、何も知らない。
だが、知識は活かすためにあると知っている。
全てを知った気になって、自ら膨大な使い切れない知識をためる。
そして、檻で耽り、集めたモノの中に自身の虚像を産み出す。正眼無く、虚像を飾りながら恍惚とするなんてごめんだ。
そんなのは、美しいとは思わない。私はね。
ひとりの人間の短い一生で、成し遂げられることは少ないのだろう。
だが、先人が駆け回り汗を垂らして、かき集めた者を引き継ぐ者がいる…そして何代も過ぎた頃、ようやく実ることがある。
三十年にいちどしか咲かない観音竹。
百年に一度しか咲かないとされる竜舌蘭。
三千年に一度しか咲かないとされる優曇華。
それは、観ることができ無いかも知れない。
だが、伝え遺す者がいれば、いずれその時に出会うことが出来るものも出てくるだろう。
愚かで醜い部分を知り、自分を責め立て続けた私が、前を向き。
まっすぐ見つめる中で、目の前にいる自分と和解し赦して貰う日を迎えた。
赦し。
己にゆらりと存在するものを無視せず見据える。他者の中にある揺らぎを見つめる。それでいい。存在を認める。
それでこそ、他のものがみえてくる。
私は、死ぬまでやはり愚か者だろう。
それでいい。
どうやら最終的に何処へ辿り着くかは、
まだまだ、わからないようだ。
何者であっても。
わたしは、足元を不思議と感じながらあるきみたり。
丸いとされる星からでた、突起のような自分を考えてみたり。
足の下には何がいるのか星の声に呼吸を合わせ地に伏してみたくなる。
上をみたらみたで、空の宙に憧れる。彼らのもたらす詩を木に登り山に登り聴いていたい。
わたしはそんな者でありたいのだ。