貶めるのはね、
自分自身だ。他人ではない。
自分だよ。
何故なら、他者がどんなに切り刻む言葉を吐きかけ、言の葉を犯す醜きソレで貶めようとしても。
ソレを撥ねのける自身を持ち得ていればなんと言うことはない。
不要なソレを受け流すことも、捨て去ることも、もう傷つかない!とも、自分で決められる。
自分らしく生きると覚悟した人には、ソレがつけいる隙などない。
自分らしく生きると決める。自分に優しくできる人は、自分を貶める必要が無いからである。
ここで言う自分に優しくするとは、甘くすることでも、退避することでもない。それらとは意味が異なる。
自分に優しくとは、自分のココロとカラダの声に耳を傾け何が必要か聴くことだ。自分を他人のように扱わないことだ。
ココロが痛いと叫ぶなら、どうしたら楽に出来るかココロに聴いてあげる。自分が何を望み、どうありたいか聴いてあげる。カラダが軋むなら、ちゃんと労り、しっかり休む。
そういうことだ。
過去の記事を読んで下さった方には繰り返しの主張となるが、御容赦願いたい。
最も危険なのは、自分で自分を柩の中に押し込み、貶める釘で蓋をしてしまうことだ。
あらゆる可能性をみることを閉ざし。怠惰に身を任せ、都合のよい惰性に自身を投げ入れ逃れても。
問は、あなたに呼びかけ続ける。残り続け、心叫ぶ嵐は勢いをまし続ける。
「私にそんな資格はない!」
「私なんて、必要ない!」
そんな風に打ち震えながら、追い詰めてしまうあなたが居る。
私は、包みたい。
私は、何度でも手を差し伸べ続ける。
私の手を信じて掴んでくれるなら。
過ちを犯さないで過ごせる人なんていないよね。傷付けないで生きられる人もいないよ。間違いなく私もそうです。
しかし、過ちを反省して活かすことができる。恥ずかしい自分をきちんと受け止めて、誰かの傷に寄り添うこともできる。
真っ直ぐな澱みなき意志を保つことで、屈強な閉ざした心に、絶望に一筋の光を差す存在にもなれる。
摩擦を恐れず、受け止め、互いの良さへの理解を深めることもできる。
どんなことがあろうと、諦めなければ自分の存在の仕方など幾らでもあるよ。自分の安心できる居心地の良い場所もつくれる。
あなたが望んでくれるなら可能性はいくらでもほほえむ。
だから、あなたはどんなに苦しくてもそのきらきらを握りつぶしては、駄目だよ。
いま、休みが必要なら堂々と癒しの泉に身を浸せばいい。「私は、休む。」と決めればいい。
躰に、心に。許す。
やさしく抱き締める。
何処か汚れ穢れを感じるなら、食べちゃえ。喰らって、栄養にしちゃえ。じゃなかったら、私が遠慮無くたべちゃうよ?(笑)
あなたは、ただ、輝くと決めるだけでいい。
その確かなる意志があり、選ぶなら。
必ずなりたい自分になれるよ。
大丈夫。ヽ(^o^)丿🍎✨
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