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【短編小説】想いよ花に

この作品は、法田波佳さん主催の短編アンソロジー「プティフールの書架-Soleil-」に寄稿したものを一部修正したものです。

「ねぇ輝樹てるき、チンゲンサイの花言葉って知ってる?」

 急に変な話題を振られ、手に持った料理酒のボトルから飛び出した酒がドバドバとフライパンに入った。

「ちょ、なんだよ急に」

 イラッとして顔を向けた六畳の洋室の窓辺では、声の主がしゃがみこんで鉢植えの世話をしている。というか、ただ愛でている。

「暇ならレシピ調べてくれよ」

 僕が、開け放したキッチンの扉から部屋の中へ呼びかけると、明里あかりはようやくこちらを向いた。

「適当でいいんじゃない? 料理ってそういうもんでしょ」
「チンゲンサイの煮びたし食べたいって行ったのは明里だろ! 液体肥料の希釈はめちゃくちゃ計算してやるくせに、料理はマジ適当だなお前は」
「植物は繊細だからね」

 当たり前でしょ、といった風情で言うから怒る気も失せる。

 黙って料理を続けていると、私さぁ、と少し控えめな声がキッチンへ迷い込んできた。

「たまに、チンゲンサイみたいだって思うんだよね、ここでの生活」
「は?」

 再び視線を向けるが、今度は振り返りもしない。お気に入りの植物図鑑を開いて読みふけっているようだ。ほんと、勝手なやつ。

 僕と明里は、幼馴染だ。

 家が近所で親どうしも仲が良く、僕らはふたごのきょうだいかってくらい、長い時間を一緒に過ごしてきた。

 小・中・高は同じ学校に通ったが、大学受験が僕らの道を分けた。
 僕は文系科目に興味があり、明里は理系科目が得意。
 僕の学力では二流大学に入るのがやっとだったが、明里は県内きっての有名大学の農学部に入学。専攻は植物生態学で、毎日野山を駆け回っているらしかった。

 二人とも家は出て、それぞれ大学付近に下宿した。でも、相変わらず自転車で十分くらいの距離ではあったので、たまに一緒にご飯を食べに行くこともあった。明里は見るたびに小麦色に焼けハツラツとしていて、僕はいつも目を細めたくなるような、心の奥がうずうずするような、そんな眩しさのような不思議なものを感じていた。

 数年後、僕は県内で就職し、システムエンジニアとして働き始めた。大手鉄道会社のグループ企業なので、労働環境はそんなに悪くない。それでも社会人一年目の春夏秋はあっという間に過ぎ、年末にも実家に帰れないまま年が明けた。

 そんな時だ。明里から突然、連絡があったのは。

『ちょっと二週間ほど、輝樹の家に泊めてほしいんだけど』

 明里は大学卒業後、そのまま同じ研究室で大学院に進学したはずだ。
 ひさしぶり、も、元気? の一言もない、突然のメッセージに困惑した。

 と同時に、そういえば今年度はまだ一度も会っていないことに気づく。社会人になってから引っ越した1DKは、相変わらず明里の下宿先から離れていない、むしろ近づいたくらいだったのに。

 理由を問えば、明里が住んでいる学生寮に外壁塗装工事が入るのだという。べつに一時立退きは必要ないらしいのだが、外壁に足場が組まれ、飛散防止シートが張られるのが明里にとっては大問題らしい。

『困るんだよねぇ、日の光が入らないと。植物が死んじゃうから』

 なんの話かと思ったが、引っ越し当日に持ち込まれた荷物を見て納得した。ガラガラと明里が押してきた台車の上には、大小合計二十個ほどの植木鉢が乗っていたのだ。しかも、これでも厳選したという。どうやら、日当たりが悪くなると自室で育てている植物たちによくないから引っ越してきたらしい。

 で、植木鉢を窓辺に並べ終わった明里は、こちらを振り返って照れたようにニコリと笑い、こう言った。

「これから二週間よろしくね……、植物たちを」
「うん、よろし、……は? 植物?!」
「だって私は引っ越す必要ないもん。家はあるわけだし」
「や、それはそうだけど、植物?!」
「大丈夫、ちゃんと世話はしにくるから」

 いくら幼馴染だからって、女子一人を家に泊めるのなんかどうすればいいのかと戸惑ってはいた。が、なんか盛り下がった自分もいた。突然転がり込んできた女子とドキドキワクワクの共同生活だなんて、どこぞのライトノベルの設定かと思うが、人生はそうそう甘くないということか。

 明里はちょっと家に来ては、植物の世話だけをして帰る。なんなら夕飯を食べていく。どういうことだ。食費を払ってくれ。

 それでも僕は、こいつの植物を家に置いて、部屋への侵入を許し、夕飯のリクエストにまで答えてしまっている。

 この感情はなんだろう。

 たまに考えたりもするが、明里がのらりくらりと植物の話をするのを聞いていると、いつも僕の心はけむに巻かれてしまうのだった。

 今日も今日とて、明里は僕の部屋で春菊みたいな葉っぱの植物に向かって懸命に話しかけている。

「がんばれがんばれ〜、ちゃんと二週間後には咲いてくれなきゃ困るんだからね」

 一通り世話が終わるのを待って、夕飯を食べる。ここまではいつもの流れ。が、今日の明里は突然ノートパソコンを取り出した。

「ちょっとよろしいでしょうか」
「なに改まって。怖いんだけど」
「これより、Y-43、田中明里さんの発表を行います」
「は?」
「タイトルは、『耕作放棄地における植物多様性の研究』です。はい、拍手!」

 困惑する僕に、サッ! と上に返した手のひらを向ける。眉をひそめながらも、ぱち、ぱち、と拍手をしてやる僕は、今、世界で一番優しいと思う。

「それでは始めさせていただきます……」

 ゴホン、と咳払いをして、僕にパソコンの画面を見せる明里。さっき聞いた、タイトルらしきものと同じ文字列が、パワーポイントで作られたスライドに大きく書かれている。

「なにこれ、何かの発表会の資料?」
 僕が聞くと、明里は頷いて、
「来週の土曜日、うちの大学で学会があるんだよね」
 と言った。
「だからちょっと発表見てくれない? おかしいところがないか」
「なんにも専門知識ないけど」
「内容は教授のお墨付きだから大丈夫。スライドの見やすさとか、そのへんを確認してほしいの」

 そういうことなら……と、僕はしぶしぶマウスを操作する。案の定、僕には難しい専門用語やら数式やら、到底理解が及ばない内容だった。スライドに使われている里山や植物の写真がきれいだなあと思ったくらいで。

「どうかな」
 前半はいいと思うけど、と僕は『考察』と大きく書かれたスライドを指さした。
「ここ、ちょっと文字が多いと思う。あとなんかたくさんアニメーションついてるけどやめたほうがいい、見にくくなるから。あとは……」
「ままま待って! メモるから」

 明里が珍しく慌てている。ちょっとおもしろい。

「全体的に読みにくい色使いの文字もあるね。こことか、こことか」

 画面を指差してやると、明里は感心したように唸った。

「やっぱり輝樹は天才だね。めちゃくちゃ参考になるよ」
「それほどでも……」
「小さい頃からデザインとか色彩とか得意だったよねぇ。大学とか就職先も、てっきりそっち方面かと思ってたのに」

 僕は黙って肩をすくめた。なにかを言おうと考えたが、最適な返しが見つからなかった。

「考察を二つのスライドに分けるとなると、もう一個項目増やせるかな……」
 明里は植物図鑑をめくりながら、大量に付箋を貼った英語論文とにらめっこしている。翻訳に苦労しているらしいのを見かねて、僕は自分のスマホの中に入っているアプリを見せてやった。

「画像検索で調べりゃいいじゃん」
「え、すごい。そんなことできるの?」
 驚く明里の前で、アプリ内で起動したカメラを英語論文にかざす。と、文字が画面上で日本語に変わった。
「わー!」
 明里が大興奮といった様子で手を叩く。
「これ、物にも使えるやつ?」
 言うや否や、室内の植物にカメラを向ける。画面上に、『ドラセナ』という文字が現れた。植物の名前らしい。

「すごいすごい、合ってる」
 立ち上がってぴょんぴょん飛び跳ねながら、部屋中の植物にカメラを向けては、「おー!」と歓声を上げる。その姿に、口では「小学生かよ」なんて言いながらもなごむ僕。

「今度、フィールドワークで使ってみようかなぁ」
 ひとしきり感動して、ようやくテーブルへ戻ってきた明里に、僕はノートパソコンの画面を向けた。
「はい、一通り文字の色も直しといたよ」
「えっ、うそ」

 スライドをキーボードのボタンで上から下まで送って、明里は興奮のせいか頬を赤らめ僕を見た。
「すごすぎる。やっぱり輝樹は天才だよ」
 さっきと同じ言葉を聞いて、僕も再びそれほどでもと答えながら顔を背けた。

 僕には、大好きな植物の世界を極めようと頑張っている明里のほうが、何倍も眩しく見えたからだ。

 見に来てくれとも来ないでとも。なにを言われたわけでもないけれども、僕は次の土曜日、明里が通う大学へ行ってみた。

 助言したスライドが最終的にどうなったのか見たかったし、それ以上に、普段能天気な明里が、公の場でどんな感じなのかにも興味があった。まぁ、どうせいつも通りなんだろうけど。人には誰しも裏の顔の一つや二つあるものだと思うのに、僕は物心ついたころから明里のよそ行きの表情なんて見たことがなかった。

 たどり着いた大学の正門には、『日本植物生態学学会』と大きな看板が立てられていて、なんだかドキドキしてしまう。
 門を一歩入り、学会サイトに公開されているプログラムをスマホで確認する。

『Y-43、田中明里、一号館 大ホール』

 一号館は、広いキャンパス内に無数にある学舎の中でもメインの建物らしかった。
 だったら正門のそばにしてくれればいいのに、よりによって一番奥の建物だ。僕は、木枯らしが吹く中、急ぎ足で学内のメインロードを通り抜けた。

 途中、女子寮と書かれた古びた建物の横を通った。淡いピンクの、いかにも女子のために作ったといった外観だ。普段、ここで明里は生活しているんだな、なんて思うと心臓がひとつ、トクリと打つ。

 そこから少し歩いて、あと数分で発表が始まるという絶妙なタイミングで飛び込んだ大ホールの広さに、僕は圧倒された。映画館にあるようなイスがざっと百席。しかもほぼ満席で、立ち見客も出ている。さっき通りすがった普通の教室でやっていた発表は、数人の観客しかいなかったのに。
 僕はすっかり萎縮して、そろりそろりとホールに入り、会場の端の端の端の、立ち見席の片隅を陣取った。

「それでは、田中明里さんの発表です」

 正面の巨大なスクリーンに、この前見たあのスライドの一枚目が表示され、明里の名前が呼ばれる。大丈夫か明里! がんばれ! すっかり身内の気分で、僕は腹の前で組んだ両手に力を入れてしまう。
 マイクの調整のためか、舞台の左端に置かれた演台に、濃紺のパンツスーツを着た女性スタッフが現れた。日によく焼けた、綺麗な人だ。マイクのスイッチを入れ、角度を調整する。

 そして、
「それでは、始めさせていただきます」
 その人が突然話し始めたので、僕は、しぱしぱと目を瞬かせた。

 数秒遅れて、ようやく、その女性が明里だということに気づく。
「まず、この研究の背景からお話しさせていただきます——」
 いつもの様子からは想像もつかない、凛とした表情。落ち着いた話しぶり。明里の発表は、堂々たるものだった。

 学部生のころから集め続けた膨大なデータに基づく研究結果だということ。
 海外の研究者とも連絡を取り合い、データの裏付けを取っているということ。

 眺めているだけではちんぷんかんぷんだったが、明里の説明とともに改めてスライドを追うと、その内容がすごいことは素人の僕にもよくわかった。

 あっという間の十五分間。
 会場が割れんばかりの拍手に包まれる。
 舞台の上で、スポットライトを浴びて深々とお辞儀する明里は、遠い遠い世界の住人のように思えた。思考は自然と、毎日あくせく働いている自分のことへ至る。社会に出てから、一度も幼馴染に連絡する余裕さえなく、ひたすらに個を消して、ただの歯車と化して。

 強く実感する。いつの間にか明里は、僕とはまったく別の、遠い世界へ旅立ってしまっていたことを。

「じゃーん!」

 その日の夜、スーツのまま訪ねてきた明里が、部屋の真ん中に座る僕の鼻先に厚紙を突きつけた。二羽のクジャクが向きあう金の装飾枠の中には、『優秀発表賞』の文字。

「取っちゃったぁ」

 自慢げに胸を張る。発表内容がすばらしかった人に贈られる学会賞らしい。

 その笑顔はすっかりいつも通りだが、どうしてもあの凛とした表情が脳裏から離れず、僕はそっと、明里を見上げた。
「お前、すごいよな」
 明里はぱちぱちと瞬きして、真顔の僕を見ると、少しトーンを落とし、
「一緒に喜んでくれないのぉ?」
 と口を尖らせた。

「今日の明里、めちゃくちゃカッコよかったよ」
 僕はテーブルに視線を落とし、言った。
「もしかして……。見に来てくれてたの?」
 明里がゆっくりと膝を折り、僕の前に座る。
「いつもと違う人みたいだった。明里は、プロの研究者なんだなぁって、思った」
「ほんと……?」
「話しぶりもわかりやすくて、惹き込まれた。堂々として、聞きやすかった」

 嬉しい、と笑うのに重ねるように、だから、と僕は再び明里と視線を合わせる。

「お前さ、こんなところで油売ってちゃだめだよ」

「……どういう意味?」
 明里の頬に乗っていた笑みが、ゆっくりと消える。
「今日の賞取れたのも、輝樹のおかげなのに」
「ちょっとスライドを見ただけだろ」
「そんなことないよ」
「なにがだよ。僕はただの凡人だ」

 もうずっと前から、明里と僕の差は歴然だった。僕はふさわしくない。その隣に立つものとしては。


 しばしの沈黙の後、明里はぽつりと言った。 

「私、舞台の上ではうまくやってたかもしれないけどさぁ、ここぞって時に根性ないし、理由をつけないと勇気出せないんだよね」
 すらすらと自己分析して、視線を落とす。
「だから、肝心な時に、失敗するみたい」
 その口元は笑っていた。なぜか自嘲するように。

 僕がなにかを答える前に、明里はさっと顔を上げると、きっぱりと言葉を放った。

「植物、今夜撤収するね」

 そう言うや否や、立ち上がる。さっさと植木鉢を運び始めるからさすがに慌てた。

「いや、なにも、すぐに出ていけってわけでは……」

 こんな真冬の、しかも夜に引越しだなんて。

「今日はたまたま、研究室の車で来てたから」
「日当たりは? 植物の健康はいいのかよ」

 なけなしの切り札を突きつけてみたが、明里はさっきと同じように言った。

「うん、べつに大丈夫だから」

 なにが。大丈夫って、なにが。

 食いさがろうかとも思った。でも僕は知っている。この幼馴染は、こうなった以上、周りの言うことを聞かない。

 玄関のシューズボックスの横に畳んであった台車に大量の植木鉢を手早く乗せ終わると、明里は上がりかまちに座り込んで、靴を履き始めた。慣れていなさそうな手つきでヒールのベルトを金具にかけている。

「下まで、行こうか」

 あとは積むだけだとしても、大変だろう。
 が、立ち上がってつま先をトントンやりながら、明里は振り返りもせず、「べつに大丈夫だから」と繰り返した。

 そのまま、しばらくドアのほうを見つめ、台車の上に並ぶ植木鉢へ視線を落として動きを止める。一瞬なにかを考え、かがみ込んだ明里は、そのうちの一つを手に取った。明里が毎日丹念に話しかけていたあの春菊みたいな葉っぱの植物。いつのまにか、大きなつぼみが茎の先端についている。

「これ」

 振り返った明里に、その植木鉢を勢いよく押し付けられた。

「誕生日でしょ、もうすぐ。……あげる」

 面食らった。そういえばそうだ。忙しすぎて、そして転がり込んできた明里に気を取られすぎて、すっかり忘れていた。

 お礼を言う間もなく、明里は「それじゃ」と踵を返し、さっさとドアの外へ消えていった。

 台車の音が、ガラガラと遠ざかる。僕はその音を、植木鉢を抱えたまま呆然と聞いた。

 玄関先の気温に足先まで冷やされて、テーブルのある洋室へ戻ったが、どうにも温まらなかった。

 幼馴染に嫉妬。

 もやもやの正体を自覚し、心が情けない気持ちでいっぱいになる。

 きっともう、明里には会わないだろう。そう思った瞬間、僕は胸の奥がチリチリするような感覚に襲われて、首のすぐ下をシャツごと掴んだ。

 ついさっきまで、手を伸ばせば届くところにいた。
 自分から追いやったくせに、びっくりするくらい、たまらなく惜しかった。

 顔を上げ、誰もいない空間と目が合って、ようやく僕は、取り返しがつかないことをしてしまったと自覚したのだった。

 どれくらい時間が経っただろう。閉じたカーテンの隙間から、うっすらと光がさしていることに気づき、僕はのそりと身じろぎした。

 ずっと夜でも構わないのに。いつの間にか、朝が訪れようとしているらしかった。一人でいじけている僕を取り残して、いつだって世界は先へ行く。これまでも、これからも。

 ぼんやりと視線をやったすぐそばの本棚に、僕のものではない、見慣れた表紙の分厚い本が刺さっている。

 明里の植物図鑑だった。思わず手に取り、開いてみる。
 植物の名前、生態、雑学。その中に、『花言葉』という項目がある。図鑑にこんなものまで載ってるのか。

 いつだったか明里に、チンゲンサイの花言葉を聞かれたことを思い出した。索引から探して、該当ページを開いてみる。

 黄色い小さな花が集まって咲いている写真。そして、花言葉は……『小さな幸せ』。

『私さぁ、たまに、チンゲンサイみたいだって思うんだよね、ここでの生活』

 明里の言葉がよみがえり、僕は、すっと息を吸い込んだ。

 ふと、部屋の中で気配がした。顔を上げる。視線だけでその正体を探し、窓際に目を留めた。
 さっき渡された植木鉢の植物のつぼみがほころび、赤い花弁が開いていた。冬のやわらかな朝日の中で光を放つようなそれは、モノクロの世界で唯一、色を持っているように思えた。

 スマホを手に、ゆっくりと立ち上がる。足元がぐらりと揺れるのを一踏ん張りして耐え、のそのそと近づいていく。

 明里が植物にカメラを向けて喜んでいた、あのアプリを立ち上げる。

 写真を撮って、アナログとハイテクの融合だな、なんて思いながら、画面上に表示された花の名前で紙の植物図鑑を引いた。

 せめて、枯らさないように育てよう。僕に今できることは、たったそれだけしかないのだから——。

 ゴトン。

 該当ページを開いた僕は、思わず植物図鑑を取り落とした。
 数秒固まって、震える手で分厚い本を持ち上げ、再びページの文字を目で追って……、

 次の瞬間、僕は、部屋を飛び出していた。


『ここぞって時に根性ないし、理由をつけないと勇気出せないんだよね』

 寂しそうに呟かれた言葉と、昼間に大学内で見た、古びたピンクの外壁の女子寮を思い出す。

 どうしてあの時、気づかなかったんだろう。

 明里は、「建物に足場が組まれ、飛散防止シートが張られて」日当たりが悪くなるから困ると言った。でも、今日、あの建物には足場なんて組まれていなかった。

『これから二週間よろしくね、植物たちを』

 照れたようなあの笑顔。

 二週間。

 あの日から二週間後は。僕の、誕生日だ。


 明里、明里、明里。
 花を最後に託したその気持ちは。
 まだ間に合うだろうか、許してくれるだろうか。
 仕組まれたこの二週間に、報いることができるだろうか。
 こんな情けない僕でもいいと、きみが言ってくれるなら。
 心の奥底に、朝日に照らされた紅の花弁が灯る。
 赤いアネモネ。花言葉は、『きみを愛す』。
 なにかと比べている場合じゃない。勝手にいじけている場合じゃない。
 冬の透き通った朝もやの中を、僕は全速力で駆け出した。




《1月22日 アネモネの日に寄せて》

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あやこあにぃ|作家&インタビューライター
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