届けたい相手を思いすぎると筆が止まるという話
仕事だったらまだ大丈夫なんですけどね。noteをはじめ、趣味で書くエッセイや小説は、読者のことを気にし始めると正常な心理状態で書けない気がする。
ライティングやマーケティングを学ぶと、早い段階で出てくるのが「ペルソナ」っていう単語。
自分の文章やサービスを届けたいターゲットの、架空の顧客像……年齢や性別・家族構成・職業・趣味・性格、時には名前などなどを細かく設定するというアレ。
例えば、「アサヒビール」のペルソナは、
という感じらしい。確かに、あの自然体な缶のデザインは、男性が毎日の晩酌で家族と飲むビールという感じがする。(私たち夫婦はアサヒのマルエフが大好きです)
あと調べていておもしろかったのは、「カルビー」のペルソナ。
こちらの記事によると、
「独身女性は20代を過ぎると3割がスナック菓子から遠ざかる」というデータを逆手に取り、カルビーは、
というペルソナを設定したのだそうな。
商品開発にあたって、「絶対お菓子なんか食わないだろ層」にいかに商品を届けるかを考えたらしい。で、あのジャガビーが生まれたんですって。すご。
まあ、ふだん趣味で書く文章でここまで細かく考えていなかったとしても、きっとたぶんぼんやりとでも、「こういう相手に届けたい」という気持ちはあったほうが良いような気はする。
良いっていうのは、「良い悪い」の「良い」ではなくて、「そのほうが届きやすいかもしれない」みたいな意味で。知らんけど。
でも、ぶっちゃけ、趣味の文章で「読者を思い浮かべて書く」って、なんだか動悸がしませんか? 私だけですか? 私がいつまでも初心者マークつけてピヨピヨ言ってるからですか?
一億と五千万歩ゆずって「30代女性、人生に疲れ家に引きこもりネコと遊ぶのが好き。趣味は壁とお話しすること」みたいなふわっとした想定読者像(仮)はあったとしても、届けたい相手の顔を具体的に思い浮かべたとたんに筆が止まる……。
と、ここまで書いて気づいたけど、違うな。
「具体的な誰かを思い浮かべたとき」というわけではなくて、「届けたい相手がこの文章を読んでどんな顔をするか」みたいなことが気になり出すと筆が止まるんだ。
例えば、私はたまに恋愛ネタで小説を書くけれど、べつに過去に大恋愛をしたわけでも、現在誰かにときめいているわけでもない。
私が恋愛小説を書くときは、題材的に恋愛を絡めざるを得なかったから書いているのであって、「ほっこりをお届けしたい」という気持ちはあっても、「私の恋愛遍歴をお届けしたい」とは思っていない。
(私はって話です。世の小説家さんがどうこうという話ではありません)
過去に小説を1作品だけ母に読んでもらったことがあるのだけど、主人公の女の子が恋人と死別する話で、ものすごく心配された。
「あんた、どこか悪いとこあるん? 大丈夫? 病気なん?」
違うねん(笑)。
小説を書いてると、たまに気になることがある。「あにぃさんって、いま誰かにトキめいちゃってる?」「この人こんなトンでも体験をしたのか……?」とか思われてないかなぁって……。特に、ふだん小説を書かない方に読んでいただく機会が増えてきたいま、すごく気になる……。
そういう時、想定読者思考が悪い方向へ働く気がする。「こんなのは恥ずかしいから書かないでおこう」「ちょっといまこのネタを書くのは厳しいな」「だってあの人に笑われたくないから……」そうやってひっそりとお蔵入りしたネタがいっぱいある。
便宜的に恋愛小説を例に出したけれど、この「大丈夫かな……」という不安はなにを書くときにも常にあったりする。
仕事だったらたぶんそれでいいんだけど。でも、趣味で書く文章はダメな気がする。最近思うけど、エッセイも小説も、「自分をさらけ出したもん勝ち」だと思うから。
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話は変わって、私はドのつくほどの超近眼で(変わりすぎだろ)。
どれくらいかっていうと、パソコンのキーボードの文字が、10cmの距離でようやく焦点が合うレベルで。
視力のいい人には想像もつかないだろうけど、ちょっと古風な眼科で視力検査すると、看護師さんが「C」を書いたカード持って近づいてくるんですよ。カードくるくる回しながら、一歩ずつね。つまり、イスに座ると一番上も見えないから、「C」のほうが近づいてくるしかないんですね。
ここまで悪いと、メガネなしでは命の危険を感じる。読書はもちろん、運転も料理もできない。しかも30歳を過ぎてもまだまだ視力は落ちている。
そんな私の視界は、メガネをはずすと、すべてのモノの輪郭が「モヤ〜〜〜」としている。なにひとつはっきり見えない。おそらく目の前にいるのが夫であっても、声を聞くまで誰かわからないと思う。
で、なにが言いたかったかというと。
文章を書くときも、読者とこれくらいの距離感でいたいな、と。あ、いや、「C」持って近づいてくる看護師さんのほうじゃなくて、メガネをはずしたときの、「モヤ〜」としている視界のほう。
すりガラス一枚向こうくらいの感じを保って、光や音は聞こえてくるけれど、姿形ははっきり見えないくらいの。そんな距離感で、文章を書いていたいなって。
そうすれば、「自分らしさ」を失わず、いいものが届けられる気がする。そう、この、「届けたい」みたいな情熱は大事ですよね。これが失われたとき、文章はたぶん死ぬんだ。
「これ書いたら嫌われちゃうかも」って読者に忖度して、取り繕われた微妙な作品……。
「こんなん書いて大丈夫かなぁ」と心配した挙句に、蔵に入れて発酵させてしまったかわいそうな文章たち……。
「こんなの恥ずかしいなぁ」と思った結果、生まれもせずどんぶらこどんぶらこと思考の川下へ姿を消していった文字の羅列たち……。
あぁ、もったいなかったなぁ。
そう思うのは、「大丈夫かな」「恥ずかしいな」を乗り越えて送り出した「さらけ出した系」の文章は、自分も救われるし、時には他人も救うし、そうでなくても意外と優しく迎えてもらえる気がするから。
趣味の文章は、届けたいという想いだけはそのままに、読者さんの顔はいったん忘れたほうがいいのかもしれない。もちろん、読んでくださる方への感謝の気持ちも忘れずに!
「読んでくれる人の反応」なんて、しょせん自分の中の陳腐な想像でしかないからね。
春風に乗って、スキップするように、楽しく書くのが大正解だな、などと改めて思った、今週なのでありました。