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第88話 「信じる」とは、根拠がなくても信じるということだ【夢夢日本二周歌ヒッチ旅 回顧小説】

「先へ進んだことは正しかったな。」
 
九州に留まらず、先へ進むか迷った末、進むことを選んで本州に戻ってきた。
 
彦島の本谷さんからの萩の元萩窯への流れ。
 
これを考えるとぼくは自分の選択がまちがっていなかったと思えた。
 
旅先でいい出会いがあると常にそう思えた。それまでの苦労や迷いがそこで浮かばれるのだ。
 
「神さまありがとう。」
 
と自然に思えてくるのである。
 
ぼくはこの旅で何度も偶然の出会いを経験して、神さまという存在をとても身近に感じるようになっていた。
 
神とはつまり人の力の及ばない、目に見えない大きな存在、力のことだ
 
そういう力が存在するとしか思えないほど、たくさんの奇跡に巡り合っていた。
 
しかし萩からのスタートはいきなり厳しいものになった。
 
元萩窯を出て、ヒッチハイクしやすい通りに出ようと歩いていると、橋の上で急に背部に「ビキッ」と激痛が走ったのだ。
 
(なんだ!?)
 
それは、本当にかなりの劇痛で、そこから一歩も歩けなくなり、上半身も動かせなくなってしまった。
 
(やばい。どうしよう。背中の左側かな・・・。)
 
荷物をおろした。それだって苦しい。やっとのことだ。
 
ぼくは橋の上にしゃがみこんだ。
 
昨晩は最高に楽しい時間だったのに、出発してすぐなのに、いきなり絶望の淵に立った。
 
(今お別れしてきたばかりじゃん。まさかもどるわけにもいかない。どうすっかなあ。)
 
この背中の痛みがこの後どうなるのか、まったく見通しが立たない。
 
この部分は高校の時から凝りやすく、よく痛みに近いくらいの不快感を感じることがあった。
 
病院に行っても医者には「何も異常はないんだよね」と言われる。
 
いくらレントゲンに何も映っていないと言われても十分異常は感じられたのに。
 
湿布をもらうだけで何も打つ手はないまま、時々その凝りはひどくなり、勉強が手に着かないほどイライラすることもあった。
 
この旅でも何度か違和感を感じることがあったが、ここまでのことはこの旅でも今まで生きて来た中でもなかったほどの痛み。
 
近くにまだ元萩さんはいるが、もう戻るつもりはない以上、ぼくはただ、見ず知らずの土地にポツンと一人たたずんでいるのと同じだ。
 
(さみしい。)
 
不安と孤独に包まれながらも、とりあえずタバコを吸って落ち着こうとした。
 
(うん。たとえ今やばい状況だとしても、選択肢は限られている。じたばたしても仕方ない。このまま本当にどうにもならないなら元萩さんのところに戻ろう。今できることはまず痛みが引くのをただ待つことだ。)
 
ぼくは痛みが引くのを待ちながら、一体何が原因なのか思いをめぐらした。
 
何か特別なことをしたわけではない。荷物の重さは変わらない。
 
しかも昨日は温泉にも入らせてもらったし、家の中で快適に寝させてもらった。
 
もっと過酷な時だっていままでにいくらでもあった。
 
さらに身体の強さだって夢有民牧場で鍛えられていたから、どこにも原因らしきものが思いつかない。
 
(うーん。原因が分かれば治せるかもしれないけど、何も思いつかない。)
 
10分もするとほんの少しだけ腕が動くようになってきたので、動かせる動作を探しながら可能な範囲で自分をマッサージしてみた。
 
でも時々激痛が走る。
 
(あー、誰かこの様子を見て声かけてくれないかなあ。それでどこかに連れて行ってくれたらいいのになあ。)
 
それがぼくのその時の本音である。ついつい淡い期待を抱いてしまった。
 
ただ、一方でぼくはあきらめてもいなかった。
 
この旅で学んできたことはそんなことじゃない。
 
あきらめないこと。信じること。
 
弱音を吐く前にできることがある。あきらめる前にできることがある。
 
そしてこの状況が最悪の状況ではないとまだ信じることができる。
 
(おれは今試されているんだよ。こういう時どうするかを。逆境をどう受け止めるかを。どういう心の持ち方ができるかを。)
 
時刻はまだ早朝だった。
 
運のいいことに、一日はまだまだある。これがもうすぐ暗くなるという時間帯だったら。しかもそれがとても寝る場所など見つからないという場所だったら。
 
そう考えると早朝にこうなった状況はラッキーともとれた。
 
十分回復を待つ時間があるし、誰か本当に通りかかるかもしれないし、そういう人に声をかけることだってできる。
 
動かずにここに何時間も居続けることで何か起きるかもしれない。
 
冷静になってみると楽観的に考えることもできた。
 
そしてそのように自分との戦いを繰り広げること数十分。徐々に体が動くようになってきた。

慎重に大きな動きをしてみたり、歩いてみたりする。するとまだ激痛が走る時がある。

でもさっきよりもましになってきていることは確かだった。

(このままだと回復していきそうだな。よかった。)

ただ、回復してきたらきたで次の不安が浮き上がってくる。

それは今体が動くようになったとしても、この先また再発しないとも限らないということだ。

(萩にいれば元萩さんを頼ることもできるけど、でも出発して誰も身よりのないところで再発したら?)

一人旅。野宿。ヒッチハイク。貧乏。

こうした不安要素のある旅ではリスクをしっかり考えることが大事だと思っている。

海外だとここに「治安」という要素が大きく関わってくるが日本ではそこはあまり考えなくていい。

でもこの時のぼくには「体の不調」というリスクが生まれていた。

また、この痛みが再発したとき、朝の時点よりも疲労した状態で再発するなら、これよりもさらにひどい状態になることも考えられた。

進むべきか、進まないべきか。

この地味な、孤独な、橋の上での独り相撲。

「進もう。そして今すぐにでも。」

ぼくはそう決断した。

留まって何か起きる可能性があるなら、進んで何か起きる可能性もある。

進んだ上で何か大変なことが起きたとしても、むしろその時何かラッキーなことが起きる可能性だってある。

もたもたして暗くなってから再発するよりも、早めに出て再発した方がいいとも言える。

動かないで後悔するより、動いて後悔する方がいい。

同じ野宿のしんどさを味わうなら、進んだ上で味わった方がいい。

留まって新しい展開を待つよりも、新しい場所に進んで新しい展開を待つ方がいい。

そして、このように前向きに勇気ある決断をすることそのものが、実は運を呼び寄せるんだ。

ぼくはバックパックを慎重に背負った。

「どうなってもいい。いや、どうにかなる。いくぞ!」

ぼくは人一倍臆病な方だ。

怖さという壁がぼくの可能性を狭めて来た。

でも怖さという壁はそれを乗り越えようという思いも同時に起こさせる。

そして乗り越えようという思いは人を成長させる。

また、恐れのないトライは無謀だ。

恐れがあることで、シュミレーションをし、準備をする。

考えすぎ、マイナス思考に陥れば怖気づいてしまう。

それをどこかでブレークスルーしなければならない。

震える膝を叩いて、勇気を振り絞った時、その勇気を世界が味方してくれる。

最後は信じるしかない。

信じるということは、実は根拠がいらないということなのだ。

根拠がないから信じるということなのだ。

そして答えは進んだ先にある。

ぼくは不安を抱きながらも前へ進むことに決めた。

つづく

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