第119話 日本を二周していたらシルクロードへ連れて行ってもらうことになった【夢夢日本二周歌ヒッチ旅 回顧小説】
浜松から渥美半島までの道のりは単純だ。
海岸沿いの国道42号(1号線)を行けばよいだけだ。
正光寺からはひたすら南下していけば1号線に出る。この1号線が浜名湖を過ぎたところで分岐し、内陸に入る方が1号線、海沿いの方はは42号線になる。
42号まで出ればあとはただ西へ進むだけ。
ぼくが大事にメモしておいた「42」という数字とはこの国道のことだった。
そのメモしていた国道42号線が、ちょうどその時いた浜松から渥美半島へダイレクトに伸びている道だとは、やはりこのタイミングで行くべくして行くところなのだろう。
計画では2泊3日で正光寺に戻って来る。
都市部は通らないし、ヒッチハイクのように点から点へ移動するのでもなく、歩きながら寝やすい場所は探しやすい。
途中のどこかに寝やすい公園でも見つかるだろうという算段。
道のりは直線距離で往復約120kmだから、実際には120km以上はあるだろう。
寺から真南に南下して1号線まで行って西へ向かうと、かなり距離が増えてしまう。
120kmを越えてしまうと、4日間かかってしまうかもしれない。
なるべく直線距離の120kmに近付けるには、南西に行きながら1号線にたどり着くというイメージだ。
ただ、浜名湖の北側を通るとおそらく道が複雑になるから、浜名湖より手前で1号線に入って海岸沿いを行きたい。
それと、3日で戻って来るというのには理由があった。
人の歩く速度は時速約4kmだ。
長距離でも移動手段のメインが歩くことだった時代の人達は、1日40km、つまり10時間を歩くというのはそんなに大変なことではなかった。
だから自分もその基準で歩きたいのだった。
仮に10時間以上歩く余裕があったとしても、寝る時間や食事の時間を考えると、10数時間、つまり、50kmくらいが生活リズムを壊さない範囲での最大距離だろう。
そして3日目の到着が遅くなるとお寺に迷惑がかかる。
3日目の夕方までに戻ってくることを目標にすると、はじめの2日は距離を稼いでおきたいところ。
1日あたりきれいに40km歩いた場合、3日目は夜到着することになるからだ。
和尚さんの気持ちになれば、ぼくの到着が遅くなってしまったら心配をかけてしまうだろう。
そもそも現地で行きたい場所にスムーズにたどり着けるか分からない。その場合は何時間もかけて歩きまわる可能性だってある。
そうすると1日に60kmまでとは言えずとも、40km以上は進んでおきたい。
(だいぶ歩くから荷物が重いと足に来るだろうし、靴ももつか分からない。荷物は最低限にしたいけど、でも寝袋は暑くても虫除けになるから持って行きたいな。)
そんなことを考えながら準備をした。
ぼくは履きなれたディーゼルの赤いスニーカーをはいて(といってもこの1足しかないのだが)、寝袋と着替えなどの最低限の身軽な装備で早朝に出発した。
普段重い装備で移動しているので、身軽な歩きのみのプチ旅が、なんだかぼくにはとても楽しみで仕方なかった。
和尚さんに朝食をいただき、出発した。
そしてぼくは歩きに歩いた。
ちゃんと浜名湖の手前で1号線にたどりつき、浜名湖の弁天島の鳥居を見ることが出来た。
もうほとんど地図を見ないで歩いた。1号線にたどり着いてしまえば、ここがどこかなどどうでもいいのだから。
1日目はおそらく50km近くは歩いたと思う。
日没とともに公園で寝る。
かなり暑い夜で、虫が多かった。
翌朝は、日中に歩いて消耗することをなるべく避けるため、暗いうちに起きて歩き始めた。
そして—渥美半島にたどりついた。
でも渥美半島も長い。
いったいどの辺が、ぼくが以前来た辺りなのか。
できれば同じところに行きたいが、長い海岸だったから多少ちがうところでも同じ景色が見られるに違いない。
メモの「ミカワ イコベ」は「三河 伊古部」のことだろう。
おそらく海岸は伊古部町にある。
ぼくは伊古部町に入って海岸に下りられそうな道を探し歩いた。
もう勘で行くしかない。
海に下りられる道らしきところを歩いて行くと、海岸に出た。
(ここだ。)
あの景色が広がっていた。
若干前とは違う場所だったが、同じような景色を見ることができた。
欲を言えば、以前来た時のスポットのほうが崖が切り立っていて、もっと迫力があったと思う。
でも全く同じスポットを探すにはかなり歩かなければならないだろう。
それはやめておいた。
しかし、以前来た時、うちの親父はどうしてここに来たのだろうか。
特に調べていた感じでもなかったし、ふらっと入った道の先にこの海岸があったという感じだった。
当時は砂浜にはおりられず、崖の上からだったが、今回は砂浜にぼくはいる。
当時のぼくは危険だから海岸に下りるところはないのだと思っていたのだ。
伊古部の海岸は高さ10mくらいの崖が東西にまっすぐ続いている。その端がどこで終わるのか靄で見えない。
南は水平線はるかな太平洋。
ここから南の景色の中には半島も島も何も見えない。
もう一度来たかったこの場所に、本当にもう一度訪れることができた。
ぼくはその景色を目に焼き付け、体にしみこませ、写真におさめた。
ぼくの目的は達成された。
(ん?ウドってなんだ?)
ふと目をやると、「ウドに注意」という看板が立っていた。
この辺りの離岸流は「ウド」と言われているようで、巻き込むような潮があり、うかつに海に入るのが危険らしい。
確かにこの日の波は荒かったからまさか入ろうとは思わなかったが、だからと言って特別な海にも見えない。
一見普通の海に見えるがここは波が穏やかな時はないのかもしれない。
それに、ひょっとしてその波とこの崖が続く地形にはつながりがあるのかもしれない。
ちなみに余談になるが、この海岸はのちに、朝ドラ「エール」のロケ地にもなっている。
さて、あとは帰るだけだ。
ぼくはまたひたすら、今度は東を目指して来た道を戻る。
2日目は暗い時間から歩き始めたからかなり眠たかった。
それに、足の裏もかなり痛い。
たくさん歩くと足の裏が痛くなることをぼくは初めて知った。
ぼくは途中、日中のカンカン照りの中、浜辺で昼寝をした。
屋根も何もさえぎるものがなかったが、太平洋からの風が暑さを紛らわせてくれたのだろう。
意外と熟睡することができた。
目を覚ますと顔が脂でべっとりだった。
(このペースだと明日の明るい時間に着けないかもしれない。)
ぼくはちょっとだけ時間をかせぐために、ヒッチハイクに挑戦することにした。
約5kmほど乗せてもらう。5kmでもだいぶ違う。ちょうど昼寝をした分を取り返した感じだ。
その後はまたひたすら歩いた。
もうこの辺の記憶はなくなっている。
同じ道を引き返していたからだろうか。真っすぐな道をただ歩く。しかも行きと同じ景色の中を。
さらに足の痛さや体力とも向き合いながら。
そんな状況で歩いていたせいだろう。
その日どこで寝たかも覚えていない。
とにかくぼくは無事、3日目の明るい時間に正光寺に戻った。
「和尚さん、ただいま!無事に行って帰ってきました!」
「おう、おかえり。」
ぼくは渥美半島の報告をし、洗濯物などをして身の回りを整えた。
そしてその夜、ついにその瞬間がやってきた。
和尚のおっちゃんとお寺にたくさんあるビールを交わしながらいろいろおしゃべりをしていると、和尚さんはこう言い出した。
「SEGE。わし考えたんだけど、今度お寺のツアーで檀家さんたちと中国にいくんだよ。一緒にどうか?」
「はい?中国ですか?」
「うん。この3日間わしも考えていて。」
どうやらぼくが3日間歩いて渥美半島へ行ったことで、和尚さんなりにいろいろ考えてくださったらしい。
でも、中国って。何日間?お金は?
「シルクロードを檀家さん達と1週間まわる。お金はわしが出すから。パスポートあるでしょ?」
(お金を出してくれる?それなら行けるかも。シルクロードめっちゃ行きたい!)
確かにぼくはパスポートを持っていた。
最初に着いた日にいろいろ身の上話をしていたから、アジアを旅したことも和尚さんは知っている。
さらに日本二周の間もパスポートを持参していて、いつ途中で海外に行くことになってもよい状態だったことも和尚さんはすでに知っていた。
「あ、パスポート・・・念のため確認してみます。え~と・・・あ、すいません。有効期限が切れていました。」
「あれ。そうなんだ。どうしようかね。」
でもぼくの心はすでにもう決まっていた。
ぼくの心はもう「中国に行く!」と決まっていた。
こんな機会はめったにない。一生で一回しかないだろう。
自分のお金ではなく、人のお金で海外に行くなんて。
その機会をもらっているのに、断るなんてことはできない。
こうなったら後は何としても行く方法を考える。
これは絶対に行くべきだ。和尚さんの思いに応えるべきだ。
「えーと。ぜひ行きたいですけど、パスポートの再発行が今からでも間に合うかどうか。ちょっと調べます。もう少し考えさせてください。」
そしてぼくはその3日後、新幹線で東京にもどった。
パスポートの再発行をするのだ。
この和尚さんの厚意に対して、「旅のルールで日本1周するまでは東京にもどらない」、「ヒッチハイクじゃないと移動しない」とこだわり通すのはやぼなことだ。
いや、中国から帰って来たらまた浜松からヒッチハイクが始まるのだ。
そう考えれば何も問題はない。何もずるはしていない。
むしろこれこそがこの旅のあるべき進み方だ。
人の厚意に対しては心で応えるべきだ。
小さなことにこだわってはいけない。
何が今求められているか感じろ。考えろ。
もっと大きな視野で。
だからぼくは何としてもパスポートを取るために、全力で最短で動くことにしたのだった。
新幹線代も和尚さんが払ってくださった。
そんなこんなで、ぼくは約11カ月ぶりに実家に帰ることになったのであった。
つづきはまた来週
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