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彼女の言葉と今の自分
自分も「天命を知る」年(50歳)を過ぎ、過去の自分に向き合おうと思うことが多くなりました。でも「過去の自分は今の私を想像できていたか?」と言われれば、多分「ノー」だと思います。
◇◇
振り返ると私のこれまでの人生にはいくつかターニングポイントがあり、そのターニングポイントにはいつも私を変えてくれる女性がいました。今の「私の妻」もその「女性」の1人と言えます。
そして・・私の印象に残っている「女性」がもう1人いました。私の妻の友人のHさんです。
私の妻は(元)中国人で、私とは私の留学先である中国の大学で出会いました。私と私の妻は当時、日本人留学生と大学の現地学生(本科生)のカップルという関係。そしてHさんは妻の大学の同級生でした。
Hさんとは私と妻が学内で付き合うようになってからも交流がありました。利発でチャーミングなHさんと私たちは、学食で食事を共にしたり、おしゃべりをしたりして楽しく過ごしたものです。
そうこうしているうちに私は留学生活を終了。その後も中国に残り、現地で工場勤務を始めました。学生生活最終年だった彼女らも同時期に卒業し、Hさんは中国の日系の航空会社に就職しました。
このような形でバラバラになったのですが、その後も私たちとHさんとは付き合いがありました。たびたび会ったり、妻の実家にHさんを呼んで一緒にご飯を食べたり、Hさんの就職先である航空会社で、日本への一時帰国チケットの手配をHさんに頼んだりしました。
そして数年後、妻との結婚と2人の日本での生活のために、私は中国での工場勤務をやめて日本に帰国することを決断しました。それからは私とHさんとの接点はなくなっていきました。
◇◇
無事に妻との結婚を果たし、日本での生活をスタートさせた私ですが、順風満帆とまではいきませんでした。当時90年代後半の日本は就職氷河期真っ只中。夢であった中国語と日本語の通訳・翻訳などといった仕事はおろか、まっとうな仕事さえ見つけるのは難しい時代です。
それでも「中国語ができる」と自分を売り込んだおかげで仕事を見つけ、就職はできました。しかしそれしかやれない私にとって、日本での会社勤めは「つかいっぱしり」同然でした。結果職を転々とする結果に。
新婚ほやほやでしたが、そのような状況でしたから当然ながら、妻とのケンカも増えていきます。会社でいじめられているふがいない私に対し、「どうして言い返さないのよ?!」とフラストレーションがたまっていたようでした。
そんなとき、Hさんが観光で来日するということで、私たちが住んでいる部屋を訪問し、久しぶりに私たちと会うことになりました。
当時妻はちょうど第1子を妊娠中。予定日が近づいていましたが、笑顔でHさんを迎えようということになりました。
しかし運が悪いことにHさんの訪問日前日、私は会社の上司から説教をされました。原因は今から思いだせば、私がミスというわけでもない、ささいなことだったような気がします。
だからこそその旨を妻に話して「何言っているのよ、アホじゃない?その人?!」と不平不満を共有したかったのですが、ふがいない私の態度に、妻はみるみる不機嫌に。険悪なムードのままで、Hさんを我が家に迎えることになってしまいました。
Hさんが我が家に来た当日。彼女が私たちの部屋を訪問すると、ぎくしゃくしている私たち2人を見て何かを感じ取ったようでした。
そんな様子を見ていたHさんが私を別室に呼び、「どうしたの?」と私に事情を聞きました。
私はてっきり、Hさんが妻を説得して私たち夫婦の中を取り持ってくれるものだと思っていました。「たいしたことないんだから。彼も頑張っているんだし、そんなに怒らなくてもいいよ」という言葉を妻にかけてくれると期待していました。
しかしHさんは、事情を話した私にこう言ったのです。
あんた、もうすぐ子供が生まれて、父親になるんだよ?この家の大黒柱になるんだよ?そんなことでめげててどうするの!!
親や妻など近しい人にこのような言葉を言われることは何回かあるかもしれません。
でも妻の友人という全くの第三者にこの言葉を言われたことに、私は当時、かえって衝撃を受けるとともに背筋が伸びた気がしました。
そして、どこか「会社が悪い」「上司が悪い」と、自分がうまくいかない理由を他責にしている自分がいることに気付いたのです。もう新婚ではない。もう妻と2人だけの人生ではない。子供が生まれてくるんだ。子供に誇れる父親にならなきゃ。
私が当時、この言葉に対してどのような言葉を返したかは今となっては記憶にありません。でも今考えてみたら、彼女のこの言葉は間違いなく、今という「予測できない未来」のターニングポイントになった気がします。
・・・そしてHさんが帰国してから1か月後、妻は無事長女を出産したのです。
私はというと、今の環境から何とか脱却しようと一念発起。職探しに奔走し、半年後に無時自分の夢である中国語の翻訳の仕事をゲットしました。
◇◇
その後、私とHさんとの接点はほぼなくなりました。一方で妻はHさんとは微信(ウィーチャット)でつながっていたようです。後になって、Hさんは旦那さんになる人を見つけて航空会社を退職後、中国で幸せに暮らしていると妻から聞きました。そのことを知り、安心しました。
◇◇
しかしさらに時は過ぎ、私は最近、Hさんが急死したことを妻から知りました。聞くところによると、ここ数年は持病の肺炎を患っており、その持病が悪化してしまったとのこと。
妻はHさんと、微信(ウィーチャット)でつい2週間前までやり取りをしていて、突然のことでかなりショックだったようです。
妻に見せてもらったHさんとの最後のやり取りは、彼女の庭に咲いた一輪の花の写真とともに添えられた「平凡な日常」という一言でした。
◇◇
Hさんが来日して私たちの家を訪ねたあのころ、「今のような未来」を誰が想像できたでしょうか。あの頃誕生した長女は今、立派な社会人になりました。私もみんなの期待に答えられたかは分からないですが、夢だった中国語の翻訳の仕事を何とか続けることができ、子供を育て上げ、家庭をつくることができました。Hさんのあの時の叱咤激励に少しは応えることができたかなと思っています。
今はただ、「立派な社会人になった長女をHさんに一目見せてあげたかったなぁ」という気持ちでいっぱいです。
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